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The 箏 KOTO 第1回 箏はじめ|西村紗知

The 箏 KOTO 第1回 箏はじめ
The KOTO 1st KOTOHAJIME

2020年9月10日 JTアートホールアフィニス
2020/9/10 JT Art Hall Affinis
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by H.Kuboki/写真提供:東京コンサーツ

<演奏>        →foreign language
深海さとみ
福永千恵子
吉村七重

<プログラム>
中能島欣一:三つの断章(1942) 十三絃箏 深海さとみ
入野義朗:箏のための二つの相(1971)  十三絃箏 福永千恵子
三善 晃:~ 白から黒へ ~ 変転 (1982) 二十絃箏 吉村七重
湯浅譲二:箏歌 芭蕉五句(1978) 歌・十三絃箏 深海さとみ、十七絃箏 福永千恵子
西村 朗:タクシーム (1982)  二十絃箏 吉村七重

 

現代箏曲を初めて生で聞いた。
それは、元々大陸から伝えられ、さらにヨーロッパから到来したモダニズムの波に合わせて改良された箏による音楽。その響きは、洋楽器のような和楽器のような、不思議なものであった。そんな箏のために作曲された音楽もまた、複数の文脈にまたがり独自の領域を形成している。洋楽受容という言葉の対象は、想定されるより複雑で広域に及んでいるのだろう。
この日の演奏会は順に、次のようなプロセスを辿った。すなわち、理論の確立にはじまり(中能島欣一)、技法の取り入れで表現が拡張され(入野義朗)、やがてより感性的な次元に深まっていき(三善晃、湯浅譲二)、そして疑似的に大陸の方へ先祖返りしていく(西村朗)。

中能島欣一〈三つの断章〉。一つ目の断章の最初の動機を聞いた瞬間、これはソナタだ、と直感する。主題はすぐさまソットヴォーチェで反復されて、いかにもピアノ曲から輸入されたコントラストの概念を思わせる。ただ、箏の音は本当に速く減衰してしまって、フレージングには適さない。音型のカーブが描けず、結果として、いわゆる男性的/女性的というあのソナタ形式の典型的なコントラストは実現できないのだった。それより、なにか体操選手が技を連続して決め続けるような、清冽な明け透けさがある。
二つ目の楽章もまた、アクロバティックな音型の連続である。これは少しスケルツァンド的。最後の楽章には、終楽章らしい締めくくりとして、目の覚めるようなトレモロやグリッサンドがあった。ラヴェルやドビュッシーのピアノ曲の技法を連想するような音。
十三絃箏でつくられたソナタは、その精神性を全て肉体へ移し替えた。その音楽に幻想はない。全て眼前の出来事だ。腕から指先にかけて絶えず緊張し続ける筋肉の張りを見て、そんなことを思う。

入野義朗〈箏のための二つの相〉。全二楽章の作品。はじめ、E-F-Cis-H-C-D-B……といった感じに、次第に音程間隔を広げながら、ぽつぽつ音が置かれていく。十二音技法による作品、などというのは、箏にとってはただの観念論であろう。技法の開発元から離れるほどに、技法には解釈が要求されていく。十三絃箏という場において、その解釈は的を射ているように聞こえた。
というのも、邦楽の陰翳は完全に払しょくされる。響きに残されたのは、平板化された清潔さだけだ。音に対する新たなコントロール方法が獲得されたというのがわかる。だから、十二音技法による音楽を模倣している、というより、十二音技法の理念を思い出させるような音だと思う。
最初の楽章、シュプレヒシュティンメっぽい軽さもある。後の方の楽章はひたすら速くもっと器楽的。

二十絃箏が舞台に運び込まれる。最初の轟音、驚いて思わず目を見開く。三善晃〈~白から黒へ~変転〉。少し腰をかがめるような立奏。さっきまでの十三絃箏とこの二十絃箏では、クラヴィコードとマリンバくらい違う。複雑な音響、しなるようなフレージング。べちっ、と爪弾く打音もほとんど聞こえてこない。
何より驚かされるのは、豊饒な残響。何を聞いただろうと思うに、それは音の汚れである。汚れた音なのではなく、結果的に汚れるよう、あくまで計算されている。ここに、箏が演奏者の肉体からやっと離れていく。西洋音楽の精神性とは残響のことなのではあるまいか、と気づきを得るほどに。
和音がいくつかかたまってあちこち遍在する地帯から、だんだん静かに、音がまばらになっていく。ふいにかき鳴らす、フォルテシモで連続する音響体。他方、ざらざらとノイジーに鳴る箇所もある。
それにしても、あの和音、一体何だったのだろう。あの和音がこんなにも二十絃箏において必然性を得ることを、どのようにして作曲家は知ることができたのだろうか。

湯浅譲二〈箏歌 芭蕉五句〉は、歌と、十三絃箏と十七絃箏の合奏作品である。前衛音楽の経験から箏歌という伝統的な形式へ挑戦する、というもの。
一つの楽章につき、芭蕉の俳句が一句歌いあげられている。あまりこぶしの入らない、まっすぐな歌唱による。切れ字ごとに楽句が挿入され、全体として句のイメージを描写するような音楽が書かれている。弦をひゅっ、と擦る音や、高音部分の音は、どこか電子音響的な発想を感じなくもない。擬古典主義的に、水墨画のようなものが広がっていく感覚。

西村朗〈タクシーム〉は、アラビア音楽の即興演奏から曲想を得た作品。二十絃箏の豊かな残響と立奏というスタイルは、タクシームのウードの飄々とした趣とはまた違った音楽を生み出す。この作品の即興を思わせる形式上の軽さより、個々の音響体の凄味が勝る。ここに、日本において発展してきた箏が、疑似的に大陸の方へ還っていく。

後世に残すべき名演であった。第2回公演への期待が今から高まる。

(2020/10/15)


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<Artists>
Satomi FUKAMI
Chieko FUKUNAGA
Nanae YOSHIMURA

<Program>
Kinnichi NAKANOSHIMA:三つの断章 Mittsu no Dansyo(1942)
Yoshiro IRINO:箏のための二つの相 Futatsu no So, for 13-string Koto solo(1971)
Akira MIYOSHI:Du Blanc au noir pour 20-gen (1982)
Joji YUASA:Koto Uta Bashô’s Five Haiku(1978)
Akira NISHIMURA:TAQSIM, for 20-string Koto solo (1982)