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撮っておきの音楽家たち|ジュリエット・グレコ|林喜代種

ジュリエット・グレコ(シャンソン歌手)
Juliette Gréco, Chanson singer

2011年6月17日 Bunkamuraオーチャードホール
2011/6/17 Bunkamura Orchard Hall
Photos & Text by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

フランスのシャンソン歌手のジュリエット・グレコが2020年9月23日南仏の東部の自宅で93歳の生涯を閉じた。第2次世界大戦中対独レジスタンスの活動家だった母親と姉が強制収容所に送られた。グレコ自身もレジスタンス活動に巻き込まれていた。その後パリのサンジェルマン・デ・プレにやって来た。戦後フランスのボヘミアンのスターに踊り出る。1944年パリ解放後芝居の勉強を続けていたグレコはあまりにも美少女だったため、アメリカの写真誌「ライフ」に4ページにわたって特集された。戦後のパリの象徴として世界中に知られることとなる。グレコを可愛がっていたジャンポール・サルトルは歌手になることをすすめ、「ブラン・マントー通り」の歌詞を贈る。パリの空の下を流れるセーヌ川の左岸は、サルトルたち実存主義の哲学者と彼らに心酔する若者たち、ジャズミュージシャンらが入り乱れるように集結し知の最新モードの解放区になっていた。ジュリエット・グレコは「サンジェルマン・デ・プレのミューズ」と称えられ、実存主義者の偶像だった。魅力的な女らしさでフランスの粋を世界に伝えるという使命を持つといえるグレコは流行や傾向や時代の生き様に振り回されず真っ直ぐに歩んだ。多くの出会いから鋭敏な感覚も取得した。最もお気に入りの作家であるジャック・プレヴェールの考えを自分のものとした。フランソワーズ・サガンは彼女のためにいくつもの歌詞を書いた。またグレコはデビューした時からアンガージュ(政治参加)しているというイメージがあった。苦悩と屈辱という苦しい幼年期をすごした彼女は傷ついた心をシャンソンに抑えきれない怒りを抱えて戦後を迎えた新しい女性像をもたらしたが、それは日常の不幸の語りを通してしか自分の考えを表現できなかった伝説的な女性歌手の像とは全く違うものだった。自由を常に愛した。グレコは伝説的な女性というものを追い払ってしまった。常に発言しはっきりと真実を示し誰をも恐れさせた人である。「楽しんで歌えなかったら私は歌いません。とても難しいことです。すべては私の口の中のことです。誰でも嫌いなものは口に入れないでしょう。言葉もおなじです。」と言う。黒い衣裳でスポットライトの中を動きのない歌いぶり、突如顔を上げ、手を拡げ空を見つめる、その動きのポーズがとても感動的で印象に残っている。

(2020/10/15)