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日本センチュリー交響楽団 ハイドンマラソンHM.20|佐藤馨

日本センチュリー交響楽団 ハイドンマラソンHM.20
Japan Century Symphony Orchestra Haydn Marathon HM.20

2020年8月7日 ザ・シンフォニーホール
2020/8/7 The Symphony Hall
Reviewed by 佐藤馨(Kaoru Sato)
Photos by s.yamamoto /写真提供:日本センチュリー交響楽団 

〈演奏〉        →foreign language
指揮:飯森範親
ファゴット:安井悠陽
管弦楽:日本センチュリー交響楽団

〈曲目〉
J.ハイドン:交響曲第33番ハ長調 Hob.I:33
A.ジョリヴェ:ファゴット協奏曲
~休憩~
J.ハイドン:交響曲第36番変ホ長調 Hob.I:36
J.ハイドン:交響曲第48番ハ長調 Hob.I:48「マリア・テレージア」

 

筆者にとってハイドンの音楽は「掌の音楽」とでもいうべきものだ。小綺麗ですまされるものではなく、かといって巨大さで圧倒してくるようなものでもない。自分の両掌のうちに無理なく収まる、けれども確かな充実感がある、そのような両手いっぱいの贈り物だ。モーツァルトは崇高すぎる、ベートーヴェンは偉大すぎる。言ってみれば、彼らの音楽は自分から隔たっている。しかしハイドンは、私の心に近いところで響いてくれる。ゆえに、ハイドンに対する私の愛は、他の作曲家に対するそれよりもはるかに大きい。
と、ハイドンへの愛情を綴ってみたものの、実のところ、筆者が日本センチュリー交響楽団のハイドンマラソンを聴いたのは今回が初めてだ。念願叶って、飯森範親が牽引するこの冒険にようやく飛び込むことができたわけだが、全104曲を奏破する壮大な企画はすでに折り返し地点を過ぎたところだ。言うなれば後半戦、わずかながらゴールが意識されてくるかというところで、世間はコロナウィルスの災禍に見舞われてしまった。
日本センチュリー交響楽団は関西楽団の中でも演奏会再開が早かったものの、当然、席数削減や社会的距離の保持など厳重な感染症対策の下である。日常の音楽の風景を一刻も早く取り戻そうという努力の反面、それは慣れ親しんできた、あの頃の「コンサート」の姿とは全く違った。
コロナの猛威が落ち着きを見せてきた7月後半、以前のようなコンサートに一歩近づいていけるかと思われた矢先、再びの感染者数増加の報は、これまで通りを期待する人々の希望を打ち砕いたことだろう。状況は好転せず、厳しい緊張感をはらむ異常さがもはや日常になろうとしている、そのやるせない雰囲気がこの20回目のハイドンマラソンの会場にもあった気がする。演奏に先立つ楽団代表のあいさつでも、現状を受け入れるしかないことへの無念さがにじみ出ていた。そうした中、生演奏主義者でないにもかかわらず、私もどこか救いようのない気持ちに飲まれそうになっていたかも知れない。

ほどなく舞台袖から飯森がさっそうと現れた。拍手の後、彼は団員たちの方に向き直り、そうして最初の1拍を振り下ろす。
瞬間、ホールにはハ長調の「C」が響き渡った。まさにそれは曇天穿つ清朗の一打。空の息吹が立ち込めた雲を消し飛ばすように、その一打は心を塞ぎかけたどんよりしたものを軽々と吹き飛ばしてみせた。彼の音楽はまさしく、私の心に触れたのだ。
チェンバロの通奏低音を含む小編成ならではの機動力に支えられ、くっきり縁どられた音の形がハイドンのハ長調を躍動させる。その繰り出される奔流を的確に先導するのが、飯森の淀みない指揮ぶりである。しかし彼はアンサンブルを統制するのではなしに、適所で舵を切る、それだけでオケの馬力を十二分に発揮させているようだった。それこそがあの演奏の根底を成していた開放感の所以だったのかもしれない。

あとの2つの交響曲もそれは同じことで、きりりと引き締まっていながら、息の詰まるような部分は微塵もない。軽妙な呼吸を感じさせる音楽作りがなされていると同時に、指揮者と楽団の間にも幸せな調和が形作られているのが感じられた。加えて、飯森はハイドンの音楽が求める「面白さ」(難しい言葉だ)に見事に応えていたように思う。音楽の前進する力はそのままに、小粋なメリハリを随所にちりばめ、絶えず耳を喜ばせる創意に満ちていた。大見得を切るような場面もあったが、それでこそハイドンの「おもろい」に届くというもの。天晴。

今回選ばれた3曲は、いずれもハイドン30代の所産で、それぞれの作曲時期もそこまで離れていない。このような全曲演奏シリーズでは、一回に様々な時期からチョイスして書法の違いを際立たせプログラムにメリハリを持たせるのも、一つのやり方だったはずで、実際にそのような組み方がされた回もある。ハイドンとエステルハージ家に注目する狙いはさておき、果たして演奏会のプログラムとして面白く成立するのかという不安が聴く前にあった。しかし興味深いことに、こうして普段あまり聴かれない、時期の近い曲を並べてみると、むしろ今まで一つのグループと捉えていたせいで気付けなかった、各曲の独自性や細やかな性格の違いが焦点化され、生き生きと浮き彫りになったのだ。それはハイドンの職人気質の賜物でもあるだろうが、むしろ聴き方の変化を促したのは飯森の采配によるところだと言わねばなるまい。特に際立ったのは、33番と36番から約7年後の48番、その書法の驚くべき飛躍と充実である。内容はもとより、形式の上でも、管弦楽の扱いの上でも、その数年がハイドンにもたらしたものの豊潤さを思わずにはいられない。

ここに組み込まれたのがジョリヴェのファゴット協奏曲(1954)、独奏は楽団首席ファゴット奏者の安井悠陽。初演ソリストが稀代のバソン奏者モーリス・アラールであったことから分かるように、独奏にはバソンが想定されているのだが、安井はファゴットでもってこの難曲と見事に対峙してみせた。終始ノリを身体に宿しながら相対する姿は印象的だったが、ジャズからの影響も見せるこの曲にとってみれば、これぞ正道のアプローチということであろう。後衛の弦楽合奏、ハープとピアノによるアンサンブルも、対位法的筆致が炸裂する第2楽章後半ではヒヤリとする場面もあったが、ソロの縦横無尽の大立ち回りをしっかりと支えていた。何より、色彩がぐるぐると混在するようなジョリヴェの音楽と、明朗快活で曇りないハイドンの作品群が織りなす、鮮やかな好対照が喜ばしい。古典的形式感などから共通点を結ぶこともできようが、むしろ私は、両者の違いから生まれる摩擦の心地良さを聴かせてもらった。こうしてお互いが高め合うような対立ほど、聴いていてワクワク・ゾクゾクするものはない。よく見てみれば、これはなんとも粋なプログラムではないか。この先のハイドンマラソン後半戦でも、こうしたワクワクが多く生まれるであろうことを思うと、やはり次が待ち遠しくなってくる。

(2020/9/15)

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佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松出身。京都大学文学部哲学専修卒業。現在は大阪大学大学院文学研究科音楽学研究室に在籍、博士前期課程2年。学部時代はV.ジャンケレヴィッチ、修士ではCh.ケクランを研究。演奏会の企画・運営に多数携わり、プログラムノート執筆の他、アンサンブル企画『関西音楽計画』を主宰。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。
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〈cast〉
Conductor : Norichika Iimori
Fagott : Yuhi Yasui
Orchestra : Japan Century Symphony Orchestra

〈program〉
J.Haydn : Symphony No.33 in C major, Hob.I:33
A.Jolivet : Concerto for Bassoon, String Orchestra, Harp and Piano
J.Haydn : Symphony No.36 in E-Flat major, Hob.I:36
J.Haydn : Symphony No.48 in C major, Hob.I:48, “Maria Theresa”