川島素晴 plays… vol.2 “無音”|丘山万里子
川島素晴 plays… vol.2 “無音”
Motoharu Kawashima plays… vol.2 “MUON”
2020年8月1日 旧東京音楽学校奏楽堂
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:川島素晴 (Motoharu Kawashima)
<曲目>
【第1部「4’33” まで」】
1. アルフォンス・アレー(1854-1905):偉大な聴覚障害者の葬儀のための葬送行進曲(1884)
2. エルヴィン・シュールホフ(1894-1942):《5つのピトレスク》より第3曲「未来にて」(1919)
3. イヴ・クライン(1928-1962):交響曲「単音−沈黙」(1949)
4. ジョン・ケージ(1912-1992):4’33”(1952)
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エリック・サティ(1866-1925)/家具の音楽「音のタイル貼り舗道」(1920)
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【第2部「4’33” 以後」】
5. ラ・モンテ・ヤング(1935- ):Composition 1960 #6
6. リゲティ・ジェルジ(1923-2006):デイヴィッド・テューダーのための3つのバガテル(1961)
7. ジョン・ケージ(1912-1992):Song Books(1970)より
8. 杉山隼一:視覚音楽 I (2015)
9. 松平敬:心の中で歌う(2020/舞台初演)
10. ささきしおり:ユビキタス “S”(2020/委嘱作品初演)
11. 川島素晴:Exhibition 2020(2020/初演)
<出演>
無音:川島素晴
アンサンブル東風(アレー、クライン、川島作品賛助出演):
Fl姫本さやか Cl大成雅志 Fg依田晃宣 Hrn堂山敦史
Vn花田和加子 古川仁菜 Vla中島久美
スポーツの美名のもと狂騒五輪で沸きかえる今夏に「無音」音楽会の告知はいかにも才人川島らしく楽しみであったのだが、引き立て役たる狂宴がコロナで延期、生音無音をしばし強いられた音楽界での此度の「無音」となった。
狂騒が失せ現前した無音の空漠に、無音は無音としてどのように振る舞いうるか。冒頭に演奏予定のアルフォンス・アレーの作品(無記楽譜)は、画集『エイプリル・フールのアルバム』の最後に置かれたものだが、単色画7枚の例えば「『黒』地下で闘う黒人たち」あるいは「『白』雪の中における顔面蒼白な少女の初聖体拝領」のごとく、「『無音』下で闘う無音たち」、あるいは「『無音』の中における無音の初聖体拝領」となるのかならないのか、が筆者の思い描いた新たな額縁であった。
前日、作曲者より解説パンフの代わりにと曲目解説URLが送られてきた。各作曲家、作品の詳細な解説、スコア、動画、関連リンクなど情報満載の実に行き届いたもので、今後の「新しいコンサート様式」の卓抜なアイデアとして広く採用されるであろう。現代音楽享受層にいわゆるクラシック愛好高齢者連は極めて少ないから、スマホやタブレットで音をさせずに演奏中ご覧も可など優れたサービス、と素直に感心。
が、その手の操作は自分は無理と、事前にささっと目を通したのである。
以下、意識にひっかかった演目5作での筆者の見聞その他を記す(番号は上記に準ずる、各文下に解説リンク)。
1. 奏者、指揮者とも黒マスク装着(新しい日常)での無音演(奏)。指揮者の拍節その他、指示にしたがってそれらしく演じる。可笑しい。
昨秋『落合陽一×日本フィル VOL.3 第1夜《耳で聴かない音楽会》』で落合が企画意図について「音楽をミュートで聴いたらつまんなかった。なので視覚(映像)と触覚(SOUND HUG/光・振動デバイス)で楽しめたらな、と」と発言したのがふと頭をよぎる。この言に、自己操作による聴覚遮断からの「発想」の傲慢、つまり健常優位(不適切表現をお許し願う)のそれを筆者は嗅いだが、眼前に展開するアレー作品の視覚、空気流動が起こす感覚増幅とその波及には人のみが生む手触り、温度がある。
常態としての奏楽を禁じられ、らしく振舞う奏者たちと、そのやや誇張された身体所作、動く弓先、楽器の揺れ、指揮者の指先から、ほろほろ羽ばたく音・響きたち、収縮膨張、そしてフレーズが描く弧線までをも感じ取り、筆者はそれを可笑しく、なお美しいと思った。おそらくそれは、「奏さない」のでなく、「奏することを禁じる」ものとしての「黒マスク」(生音の「喪」でもある)の存在が生み出したペーソスの美であったのではないか。「滑稽」の裏にあるのは常に悲喜劇。
額縁の無音の中で、無音たちは葬送を歌ったのだ。
https://ameblo.jp/actionmusic/entry-12613867850.html
2. 川島の独壇場。
多様な休符、びっくりマーク、ニコニコ、もしくは伏し目スタンプ、GP休戦コメントなどなど「自由な表情と感情をもって」の発想標語を伴う不可思議スコアを、水を得た魚のごとく弾き進める彼の芸達者ぶりを堪能する。触れるようで触れないようで、その境界をさまよい踊る指先のなんともエロティックなこと。
さらに、身体の遊泳、緩急ボケツッコミの度を過ぎない大げさに、通常コンサートでよく見る身振りの馬鹿馬鹿しさ(音出す前に、出した後に指泳がせたり腕跳ねあげたりの脚色粉飾は表現とは無関係でしょ)への揶揄さえ感じられ、筆者、クック笑ったりぞくっとしたり、手を叩きそうになったり、なのだが、客席いたって静か。こんなんで受けるな、的何気の周囲冷ややか圧。
https://ameblo.jp/actionmusic/entry-12614113495.html
3. 単音20分沈黙20分の大曲。単音とて、複数楽器の奏する圧の増減に発するうなりの様々はなかなかのもの、ではあっても中途で飽きる。
と、開放入口から今どきファッション透け黒装束のうら若き女子1名、厚底靴カタカタと通路をよぎり空席を探し、筆者前方近くに着席した。飽きてはいたが、まだ生真面目傾聴努力中であったのでいささかムッとした、のだが、まあまあ。と、彼女、単音延々に、長い髪を指先でいじり始め(この仕草はかなり気になる)、やがてチラシを手に取り、なにこれ、みたいにやおら周囲を眺め回すのだ。あの人来てるかな、かも知れんが。
と、単音終了、指揮者が上に拳を振り上げたまま舞台静止、沈黙開始となった。音打ち切りとともに訪れる静寂、耳に飛び込むは空調のモーター音。
そして長〜い長〜い長〜い沈黙。筆者、身体むずむず、つい足を動かし座席下の板を蹴ってしまい、その音に身をすくませる。
前方彼女変わらず、髪いじり、あたり見回し、チラシ持ち上げであれば、無音黙鑑賞にうんざりした筆者は、「だよねえ」と同調、皆さんどうなの、とうかがい始めたのである。寝ている人もいるけど、概して真面目に静か(身じろぎもさほどせず)。時は沈黙の人々の上をゆるゆる流れてゆくのであった。
と、筆者、当初静止固まっていた奏者面々が次第に緩み、ほどけ、だれ始める(自然の摂理だ)のに気付き、唯一両拳を振り上げたままの指揮者がじっと仁王立ちする姿に「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」のセリフをかぶせつつ頑張れ応援に方向変換、ついに演じきったあかつきには、よく頑張った!と盛大な拍手を送りすらしたのである。
筆者に「無音・沈黙における哲学的命題探求意志」が生じなかったのは致し方ない。
髪いじろうが寝てようが神妙であろうが飽きようが疲れようが思索しようが、要は自分の時間をどう生きるかだ。
https://ameblo.jp/actionmusic/entry-12614289939.html
5. 演者がステージから聴衆を眺める設定。舞台の椅子に一人腰掛け、客席の客のようにスマホをいじったり、眺めまわしたりするそれだけのこと。するうち、せっかく向こうがこっちを見てくれている滅多にない機会なんだから、おーい、と手を振りたくなったのである。眺められてるのにそれを眺めてるだけってどうよ・・・変わらぬ静粛にためらいつつも、胸の前、顔横あたりで目立たぬ程度にさわさわ、と振ってみる。気付くか、気付かないか(向こうも周りも)、さわさわ上に上げたり下げたり数回・・・何事もなく時は果てた。
https://ameblo.jp/actionmusic/entry-12614482208.html
9. 後半ダントツの傑作である。解説を是非読まれたし。時事的な作品ゆえリンク先が消えると不明になるので、簡単に記す。名古屋教育委員会から小中校への音楽授業再開にあたって「飛沫が飛ぶため実際に歌を歌うのをできるだけ避け CDを聴いて心の中で歌ったりハミングする活動を取り入れるよう求めます。」
バリトンの松平がこれに瞬応して生まれた作品である。
ただこれは表情、目線、目力などが演奏の肝なので、遠目の筆者にはあまり届いてこなかったのが惜しまれる。松平の秀逸動画は必見。
https://ameblo.jp/actionmusic/entry-12612591584.html
上記の他に言及したいものはない。
いずれ動画が公開されるだろうからそちらをご覧頂ければと思う。
全曲各解説は以下URLにある。
https://ameblo.jp/actionmusic/entry-12608690744.html
にしても、舞台『無音』での客席「無音」。
音楽史学習におけるケージ『4’ 33”』への「その場に生起する種々の音響に耳を澄ます」的理解(ex.解説の一文「日常に遍在する音に耳を向け、そこに新しい発見や気づかれざる美を見出す。ケージの意図は、むしろ、能動的にそこに鳴り響く音に耳を傾けること、だったわけです」)は諸氏諸子に織り込み済みであろうが、その文脈を脇に置き、自らの心身で自分なりの答えを見出すべく私たち、この『無音』に挑んだか?
沈黙というより沈滞と思える空気の動かなさに、そういう疑念が湧くのであった。
昔、レニングラード(ソ連当時の呼称)の現代音楽祭で、子供から爺ちゃん婆ちゃんに至る好奇心満タン聴衆は、リゲティやノーノに呆れ、わやわや感想を述べ合いすこぶる騒がしかった。現代音楽初体験(非日常)だったからだ。
『4’ 33”』を西洋音楽日常への「反日常」とするなら、本企画「その前後」はこのコロナ禍、さらには地球滅亡まで残り100秒の「今日」にあっての新たな「(現代)音楽日常」への問いではなかったか。
「能動的に」とは。
巷の同調圧力にせよ自粛警察にせよ、とりあえずの沈黙に、わずかの目配せに、無意識に潜むことを筆者は自覚自省する(雑音自粛、靴音にムッ、退屈に「だよねえ」)。それはいつでも、私たちの中に、誰もの中にある。
日常の、それとはわからぬ微細極小の事象にそれらは満遍なく潜在し、目立たず、溶け、蠢いている。
だからこそ、額縁の中の無音から飛び立った「無音の音たち」のように、私たちは誰かの語りでなく、すでにある定解でなく、都度、自分自身の全感覚で「掻き消されぬ音」を「塗りつぶされぬ音」を感知、創出、語って行かねばならないのではないか。
『黒』の『白』の『青』(IKB)の単色を照射、何かを描き出しうるのは個々人の総身・心という光のほか、無かろう。
「新しい“非日常”」へと挑み、跳ぶ力を常に蓄え、発すること。
表現者とはそういうものではないか。
長いコロナ禍にあって、この日、楽堂に会した人々みな、そうであったはずでは。
(2020/8/15)