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いずみシンフォニエッタ大阪第44回定期演奏会|能登原由美

いずみシンフォニエッタ大阪第44回定期演奏会
Izumi Sinfonietta Osaka 44th Subscription Concert

2020年7月4日 住友生命いずみホール
2020/7/4 Sumitomolife Izumi Hall
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 樋川智昭/写真提供:住友生命いずみホール

<演奏>        →foreign language
尺八:藤原道山
ヴァイオリン:郷古廉
指揮:飯森範親
管弦楽:いずみシンフォニエッタ大阪

<曲目>
川島素晴:尺八協奏曲「春の藤/夏の原/秋の道/冬の山」(2014)
A. ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」(1935/F. Karaew編曲2009)
〜〜休憩〜〜
西村朗:12奏者と弦楽のための〈ヴィカラーラ〉(委嘱新作/2020)

 

いずみシンフォニエッタ大阪が創立20周年を迎えた。その記念となる本公演は、ホール4ヶ月ぶりの再開を祝うものともなった。私がここで聴くのも、2月初旬に行われたこの楽団の定期演奏会以来。3月に入ると軒並み公演が中止になった。

しばらく生演奏から遠ざかっていたためであろうか…。いずれも、一つ一つの音の動きが鮮明に聴こえてくる。あるいは、新型ウィルス感染予防対策のために奏者を減らし、距離をとった配置で演奏されたためかもしれない。どちらにしても、あらゆる響きが新鮮だ。音が生み出す非日常の世界に、体ごと連れていかれる感覚も久しぶりだ。

音楽監督、西村朗の委嘱新作をメインとし、尺八、ヴァイオリンという東西2つの楽器のための協奏曲を組み入れたプログラム。いずれも、プレトークやパンフレットで多くのことが語られる。現代音楽の公演では珍しくないことだ。「わかりにくい」と言われるジャンルだけにそうした工夫は必要なのであろう。けれども、「自由に聞いてください」と言われれば、予想を超えた発想や聴き方が生まれ、今とは全く違った聴衆や創造の場が生み出されたかもしれない。そんな考えがふと頭をよぎる。

「天使と神々の幻想」と銘打つ。なるほど、3 人の作曲家による幻想の世界、その個人的経験の追体験の場である。作曲者が描いた風景や心の動きが音の軌跡を描いていく。その軌跡が聴き手をいざなう。とはいえ、三者三様。作者の体験は、必ずしも聴き手に対し開かれているとは限らない。時にそれは作者、奏者の内部にとどまり、聴者を突き放すこともある。その音が真摯であればあるほど、こちらは激しく突き放される。

冒頭の川島作品。気鋭の尺八奏者、藤原道山のために書かれた。その名を構成する4文字の漢字を四季の景色に組み込み、4種の尺八で4つの楽章を奏するもの。「春の藤」、「夏の原」はいずれも、そこに宿る小さな生命―植物や動物たち―を描き出す。だが、尺八の音がそれらに与えた命はいかなるものであったのか。むしろ、「秋の道」を歩む険しさ、「冬の山」を貫く孤独の厳しさに、その音の存在が意味を放っていたように思う。

一方、西村の作品では何が見えただろう。その音を通して聴き手である私が体験したものは何か。それは、十数年前、人気のない新薬師寺の堂内で西村が受けた感覚、薬師如来とそれを取り囲む十二神将を前に彼を襲った神秘の体験そのものではない。ましてや、その同じ景色が音を通して私の目の前に広がったわけでもない。私が見たのは、まるで神の啓示を受けたかのようにしばし佇む西村自身の姿であり、その目の動き、心の動きであった。堂内に足を踏み入れた途端、矢のように飛んでくる視線、肌を刺す霊気、古い柱に積もる塵と埃の匂い。その諸々に心を震わせる作者。体の髄を突き抜けるような打楽器の激しい音も、宙を舞うごとく高音を走るチェロの音も、東洋の響きを放つハープの音も、私にとってはただ外側から見つめるだけのものであり、その内側に入り共に感じることは決してなかった。

ある意味で、ベルクの協奏曲でも同じ印象をもったように思う。もちろん、その主題や形は全く異なる。なにせ、我が子同然に可愛がっていた少女の死を悼んで作られたという作品だ。プレトークで川島が話したように、ヴァイオリンの4本の開放弦から「12の音」の列とストーリーが紡がれる過程に一人の人間の生を見る、あるいはその展開にやがて迎える悲しい結末を想像することもできただろう。

だが、郷古が奏でるその調べは、亡くなった少女の姿やその美しい思い出を表していたようには思えなかった。まるで、一つ一つの石を積むように音を重ねていく…。聴き手に対し何かを発するわけでも、自らの音楽を伝えようとしているわけでもない。ただ作者の思いに寄り添い、その少女の幻影をひたすら求める。いや、ここにあるのはむしろ、死者への想い、その魂の永遠の安息の願いではないだろうか…。その瞬間、まさにこれは「追悼の調べ」なのだと、実感した。

果たして、ベルク自身が抱いていたものが何であったのか。それについては知る由もないし、本人さえ語る言葉をほとんど持たないのではないだろうか。ただ、今目の前にある音楽が投げかけてきたものは、死者を悼む思いであり、嘆き、悲しみであった。そして、西村の作品で感じたのと同じように、それ以上、私はその内部に入り込むことができなかった。ただ、外から見つめるしかなかった。安易な共感など、ここでは途端に拒絶されてしまう。その音が真摯であればあるほど、容易には近づけないのである。

こうした聴き方は、間違っているのかもしれない。作者の意図を汲んでいないという点でも、分かち合いを音楽の良さと捉える向きに反しているという点でも…。けれども、音楽は、作り手の、弾き手の、そして聴き手の個人的体験なのであり、あくまで互いを他者として、それを見つめ合うのもまた、音楽の一つのあり方ではないだろうか。今日の演奏から受け取ったことである。

(2020/8/15)

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<players>
Dozan Fujiwara (Shakuhachi)
Sunao Goko (Violin)
Norichika Iimori (Conductor)
Izumi Sinfonietta Osaka (Orchestra)

〈program〉
Motoharu Kawashima : Shakuhachi Concerto
Alban Berg : Violinkonzert “Dem Andenken eines Engels“ (Reduzierte Fassung für Violine und Kammerorchester von Faradsch Karaew 2009)
Akira Nishimura : VIKARALA for 12 players and strings (Premier―Commissioned by Izumi Sinfonietta Osaka)