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特別寄稿|『フーガの技法』の未完の途絶と〈無=死〉|齋藤俊夫

『フーガの技法』の未完の途絶と〈無=死〉
Unfinished disruption of The Art of Fugue and null=death.

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

『フーガの技法』未完の途絶ページ

初めて『フーガの技法』の第18曲「3つの主題によるフーガ」の、あの未完の途絶を聴いた時の衝撃は忘れられないが、それがいつどこでのことだったかなどは思い出せない。何故なら、いまだにあの途絶に至る度に衝撃、そして恐怖が筆者を繰り返し繰り返し襲い続けるのだから。

さらに、初めてあの途絶に出会ってから、同曲の第2主題がソロで提示される部分を聴いても背後に冷たいものが迫ってくるような感覚を覚えるようになってしまった。
少し楽譜を見てみると、未完の途絶の最終小節第3声部は、その直前の小節の、第2声部による第2主題を完全4度下げたもの、つまり第2主題を模倣したものであるから、そこからの連想で第2主題のソロが恐ろしくなった、とも言えるかもしれない。
しかし、理屈抜きに記述すると、完璧に作られた第1フーガの終結部から第2声部に第2主題の長いフレーズが突如現れて延々と奏でられる、この冷たい響きは〈幽明界を異にする〉というか、心臓を直に掴まれて、この世ではないどこかに連れて行かれていくような心地がする。

またさらにこの曲を聴き込むと、第3主題、つまり「B-A-C-H」に始まる半音階的な主題も怖くなってくる。恐ろしい第2主題による第2のフーガと、第1主題と第2主題による2重フーガを無事に、完璧に終えたと思ったら、そこに短2度、短3度、短2度の音程に始まる〈出口のない〉主題が現れるというのは、幽界の深奥に至ってさらなる深淵さらなる奈落へと引きずり込まれるようだ。だが聴かざるを得ない。まさにセイレーンの音楽。

そして第3主題によるフーガが完璧に終わると同時に、またしてもあの第2主題が先導して3重フーガが始まった……途端に途絶する。そこにあるのはこの世とあの世、今生と幽界、深淵や奈落といったものとは全く異なる、完全な〈無〉としての〈死〉。

《死はたしかにやって来る、しかし、いますぐというわけではない》と、ひとは言う。この《しかし》によって、世間は死が確実であることを打ち消す。(略)こうして世間は、死の確実さの特異な性格、すなわち、死はいかなる瞬間にも可能であるということを、蔽いかくしてしまう。(1)

この、死への可能性の「蔽い」が取り払われる瞬間、それが『フーガの技法』の未完の途絶の瞬間である。なんの予告も、予兆もなく、それどころか、始まったと思った時に訪れる死。その体験ほど恐怖する、いや畏怖すべきものはない。

だが、だからこそ、最後に畏怖すべき無=死が待ち受け、その最後に至る道程も不安に満ちているからこそ筆者は『フーガの技法』を繰り返し聴き返さざるを得ない。

しかるに、現存在自身のひとごとでない孤独化された存在のなかから立ちのぼってくる、たえまのない、絶対的な、おのれ自身の脅威を解放しておくことのできる心境は、不安である。この不安のなかで、現存在は、おのれの実存の可能的な不可能性という無へ臨む自己を見いだす。(2)

ハイデッガーが言う所の「世間のもろもろの幻想から解かれた、情熱的な、事実的な、おのれ自身を確承せる、不安にさらされている《死へ臨む自由》における自己」(3)になれる勇気は筆者にはない。だが、せめて彼が言う所の「不安」を感じ、無=死が今、ここでも自分に臨んでいることを再確認し、一時だけでも無=死へ自己を臨ませようと、『フーガの技法』の未完の途絶に向かって筆者は何度でもこの作品を聴き返し続けるだろう。

(1)マルティン・ハイデッガー『存在と時間 下』(細谷貞雄訳)ちくま学芸文庫、75-76頁(強調は引用者による)。

(2)前掲書、91頁(強調は引用者による)。

(3)前掲書、92頁。

(2020/6/15)