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Pick Up(2020/6/15)|琉球交響楽団と大友直人|丘山万里子

琉球交響楽団と大友直人
Ryukyu Symphony Orchestra and Naoto Otomo

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

4月に初来京だった琉球交響楽団を筆者は心待ちにしていた。が、コロナで6月、さらに来年にまで延期となり、落胆した。沖縄はずいぶん昔に一度訪れ、中国の故宮に似た首里城(昨秋火災)、白砂ビーチと青い海に遊ぶ定番であったものの、ひめゆり、街をかすめ飛ぶ轟音撒き散らし基地が胸に苦かった。

山田耕筰『沖縄絶唱譜』より第二首「矢彈盡き」(自筆譜)

先般、栃木の『山田耕筰と美術展』での山田の戦時戦後の展示は映画『新しき土』関連と戦後肖像画くらいだったが、筆者は拙著『からたちの道』山田耕筰論を沖縄で終えている。その年(2000年)の沖縄サミットに訪れたクリントンが「平和の礎」に献花、流れる汗を拭うようにと側近くの沖縄女性がハンカチを差し出す場面がTVに映し出された時、山田の『沖縄絶唱譜』を想起したからだ。この作品は終戦1ヶ月前の7月に牛島満陸軍大将(自決直前中将より昇進)の詠んだ2首に書かれたもの。牛島は沖縄戦で米軍からの降伏勧告を黙殺、自決の道を選ぶ。その際、各部隊に打電した決別文に「自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」としたためた。最後の「生きて虜囚の辱めを受くることなく〜〜」が沖縄の民最大の悲劇を決定づけることになるが、この一句は参謀が付け加えたとされる。が、それを裁可したのは彼だ。
牛島の歌をひいておく。

「秋を待たで 枯れゆく島の青草は 皇國の春に甦るらむ」
「矢彈盡き天地染めて散るとても 魂がへり魂がへりつつ 皇國護らむ」

2首とも物悲しい音調だが、第2首はマーチ風となっているのがいかにも山田らしい。ちなみに島民疎開推進の最中に着任した牛島は、ほどなく学童疎開船対馬丸の撃沈の報を受けることとなった。三善晃の戦争をめぐる交響4部作の最終作『焉歌・波摘み』(1998)は海に沈んだ子らへの鎮魂で、弦の子守唄が流れる。

琉球弧(奄美群島沖縄諸島及び先島諸島を含む琉球列島)という美しい呼称はかつての琉球王国を忍ばせるが、その名を冠した琉球交響楽団は創立20年を迎える。立ち上げから関わった大友直人がこの1月に『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)を上梓したので公演を控え読んでいた。学内で見かけた覚えはあるものの、デビュー時から古澤巌vnら新世代の華やかな空気をまとい、どちらかというと聴くのを敬遠していた指揮者。齋藤秀雄の最晩年をかすめ、小澤征爾世代を憧憬する風もなく、ジャンルを超えた音楽との付き合い方を軽々とやっていた。そのあたり、本を読むと、へえ、そうだったのか、である。
筆者がなるほど、と思ったのは、齋藤との初対面で彼の母親に師が愛弟子自慢をするのを「かわいい先生だな、と子どもながらに思いました」。震え上がっていた世代から思えば仰天だ。が、続けて、師は真の教養人であり、社会における音楽家の役割、ポジションがどういうものかを的確に知っていた、とフォロー、音楽はまずはエンターテインメント、世の人は時間とお金を使って感動や楽しさを求めて聴きに来るのだから、芸術だとお高くとまっているのは如何なものか、といった感じの大友見解が示される。このエンタメ路線こそ彼の躍如たるところで、学生時代からヤマハ主催の世界歌謡音楽祭やポプコン本選会でのオーケストラ指揮者を務め、ブレイク前のC・ディオンやS・ワンダーと共演するなど、幅広い経験に、さもありなんとうなずくわけだ。
周囲に可愛がられ(小学4年でN響の定期会員、中学で読響、日フィル、都響など聴きまくった早熟ぶりがつとに知られた)22歳でN響デビューと順風満帆。出かけたタングルウッドではバーンスタインがN響を「Horrible orchestra!」と笑うのに「なめられてたまるか!」と憤激。オーディションをボイコット、芝生に寝っ転がっているのを小澤に見つかり怒鳴りつけられ、会場に行ったもののガンとして振らず、氏に胸ぐらをつかまれた、とのエピソードも。小澤の「ビッグチャンスをつぶすのがどういうことかわかっているのか、僕はチャンスをつぶしたことも、失敗したことも一度もない!」という言葉に対する覚めた反応(そうははっきり書いていないが)が印象的だ。
日本で基本的な勉強ののち欧米留学、キャリアを積んで凱旋、あるいは日本と海外をまたにかけての活躍、という王道パターンを未来永劫繰り返すなら、日本は常に二流、三流ということになる、という認識のもと、コンクールも受けず留学もせず日本に腰を据え我が道を行くことにする大友の、目指すは日本の音楽界の内側からの改革(本タイトルはそれ)。そのような考えを大卒間もなくで持つのは立派だが、ものごと内からにせよ外からにせよ変革は困難至極、そこにエネルギー消費するくらいならゼロからの出発が最も効率よしと考える筆者であれば、まさに琉球交響楽団こそが、大友の大いなる野望の道の一つでは、と期待が高まるのであった。

この楽団は常設ではない。演奏会のたびごとにオケとしての音を作り直せねばならないというハンディはあるが、もともと豊かなエンタメ性を備えた沖縄文化を持つ地であれば、それを土台に新たなチャレンジができる、というのが大友の考え。民謡を演奏すれば客席全員が立ち上がり歌い踊るというその文化土壌、根っこの力。彼の指針は明快だ。

  1. 文化の交流点である沖縄という特徴を生かし世界中からプレーヤーを集めレベルアップ、インターナショナルな楽団にすること。日本のオケの外国人の少なさを彼はガラパゴス化と言う。多様な感性と触れ合うことで、「ニュートラル」な日本の感性が豊かになり、それが魅力ある「音」を生む。うまいけど感動しない、と言われ続ける日本のオケは表現としての「音」が不足しているからだ、という大友の指摘には刮目だ。
  2. 沖縄の素材を使った質の高い作品の創造と演奏。地元作曲家への依頼にこだわることなく幅広い創造の可能性を探る。何事も胸襟を開いて、ということだ。

というわけで、東京公演はモーツァルトの序曲のほか、ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』辻井伸行pf、辻井伸行『沖縄の風』(琉球交響楽団 創立20周年記念委嘱作品)、萩森英明『沖縄交響歳時記』(四季折々の風物風習を織り込み、最終楽章にカチャーシーを取り入れ“島人魂”を詰め込んだ全6楽章からなる大作)というプログラムとなった。
辻井を立てるあたり、巧みなプロモーションでもある(エイベックス主催)。3月にはCD『沖縄交響歳時記』が発売されたが、筆者はあくまで来年の実演を待つ。琉球の熱く濃い音を生で聴きたいゆえ。

大友はワーグナーはドイツに、フランスものはフランスに、ご当地音楽はご当地に任せればよい、我々は日本人の作品をもっと積極的に演奏すべき、と言う。賛成だ。
最近は中堅若手にこうした考えを持つ日本人指揮者が増えており心強く思っているのだが、それにブレーキをかけているのはやはり聴衆の反応だろう。大友は1950~80年代の「現代音楽」は戦中派の「暗くシリアスな色調」で、確かに過酷な戦争体験からの悲痛な叫びや社会的問題的は必要ではあるが、一方で平和な今の時代にはもっと「幸せな時間、豊かな感動」が必要ではないか、と述べる。そこで登場するのが三枝成彰なのだが、まあ、好みはそれぞれ、としておく。人は時代からは逃れられないが、それでも創作人はその生きる場所を、姿勢を選んで生きる。大友もまたそうだろう。それは好悪是非の問題でなく個々の気質の相違であれば、己もまた選んで生きるほかないのだ。
戦後75年など言いたてるのは「幸せな時間、豊かな感動」には鬱陶しかろうが、今なお日米に引き裂かれた沖縄、そこに生まれた琉球交響楽団から、彼がどのような「音」を、音楽を創り出すのか、やはり気になるではないか。

(2020/6/15)