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パリ・東京雑感|新型コロナを手なずけた女性リーダーたち 自由を捨てる優しさ|松浦茂長

新型コロナを手なずけた女性リーダーたち 自由を捨てる優しさ
Why Are Women-Led Nations Doing Better With Covid-19?

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

地球上の人間の半分が家に閉じ込められるという前代未聞の経験をしたので、新聞には、禁足と自由をめぐって毎日意見が載せられていた。強権発動を危惧する憲法学者、自粛を守らない者に対するヒステリックなネット攻撃を論じる社会学者……。どれももっともな説なのだが、ピンとこなかった。議論が上滑りして聞こえる。平常時にはあれほど重みのあった人権やプライバシーの言葉が軽い。嘘臭くさえ聞こえてきた。なぜだろう?いわば人類の半分が牢獄に拘禁され、なすすべもなく死刑執行を待っているとき、平常の価値は転倒する。命を守るための集団行動がすべてを覆い尽くし、個は見えなくなるからだろうか。
日本は世界に例のないほど規制が緩かったし、新型コロナの勢いも、毎日二千数百人が死んだアメリカなどとは違ったから、「価値転倒」と言うほどの実感はなかった。しかし、医療が崩壊し、火葬を待つ柩がぎっしりと並んだ北イタリア。ほとんどの店が閉じ、広場には人影も無く、散歩の時間・距離まで決められ、違反すれば罰金をとられたパリ……警官と軍に管理されるロックダウンの日常を想像してみよう。
それでも新型コロナは楽な方で、1720年マルセイユをペストが襲った時、許可証なしの外出は死刑だった。次に人類を襲うウイルスが、ペスト級でない保証はない。しかし、そんな極限状態でも、人間には自由がなくてはならない。自由が嘘臭く見えたいまこそ、自由を考えるチャンスかも知れない。

5月16日、真山仁氏は新聞に「あるがままの無理をしない生活」をしようと書いている。「あるがまま」「無理をしない」とは日本的な自由・自然の見事な定義だ。

自粛とは、自らの判断で、慎めばよいのであって、誰かに要請されるものではない。現状は、強制的に慎む、「強粛」というべきだろう。そんな矛盾した行動を、国民に連呼するような人の「正しさ」に負けてはいけない。我々はいま、新型ウイルスより恐ろしい「正義」という伝染病に立ち向かう勇気を持つべきなのだ。

オハイオの反ロックダウン・デモ

閉店、禁足、マスクなどを強制する「正義」=命を守る集団行動に立ち向かうとはどういうことか、アメリカの状況が参考になりそうだ。
世界最大の死者を出したアメリカだから、禁足支持が多数派には違いないが、反対派も元気が良い。4月から各地で「解放」を叫ぶデモが続いた。勿論彼らはマスクをしない。銃を持ったり南軍の旗を掲げたりした勇ましい人たちが、密な集団を作って、「買い物の自由に介入するな」と要求した。彼らにとって、ウイルス抑制策は暴虐非道な専制政治としか映らない。トランプ大統領はこのデモが大好き。たとえばミシガンでデモがあると、その最中に「ミシガンを解放せよ!」とツイッターであおるのだから物騒な話だ。
都市解放デモをするのは白人に限られる。なぜか?法学者チェリル・ハリス氏によると、奴隷制の時代、白人とは「奴隷にならない人間」を意味したから、黒・白の境界線は決定的だった。この境界線によって、白人は自分が商品化される危険から守られる。<白>は自由な人間の徴であり、他者の意志に支配されない保証を意味した。さらに<白>は<非白>を支配する権利をも意味し、その特権によって、アフリカ人を奴隷化しアメリカ原住民の土地を収奪した。
さて、こうした南北戦争以前の人種意識を持ち続けている白人が、禁足を命じられたらどう感じるだろう?自由が奪われるとは、黒人に身を落とすに等しい。「他者に支配されない」白人のアイデンティティ喪失と受け取るだろう。ニューヨークタイムズのコラムニスト、ジャメル・ブイーは、こう書いている。

制限は単に厄介だというだけでなく、彼らの理解する社会契約への許しがたい違反となる。制限は彼らの人種アイデンティティすなわち自由と自立の権利に抵触する。そこで、彼らは<白>の自由のもう一つの側面である支配権を行使して、社会契約違反に決着をつけようとする。

念のためつけ加えておくと、新型コロナで死ぬのは主に黒人だし(たとえばワシントンでは人口の46%を占める黒人が、死者の約8割)、配達、スーパーのレジなど感染リスクの大きな(テレワーク化が不可能な)仕事に就いているのももっぱら黒人だ。

「支配権行使」はデモに限らない。テキサス州では、刺青店が命令に反して営業を再開するため、武装ガードマンの応援を求めた。開店支援を買って出たのは、29歳のアーチボールドさん。ライフル銃を持った5人の仲間と犬を連れて店の周辺を固めた。彼は、州政府に対決して店を開こうとする店主のために一肌脱ぐのを自分の使命と心得、注文があれば直ちに「武装開店」を強行。ほかにもいくつか開店支援の武装グループが活躍している。

マスクをめぐる闘争も深刻だ。カリフォルニア州の食品店で店員が「規則ですからマスクをして下さい」と女性客に頼むと、客は「ここはアメリカ。自由の地ですよ。」と、拒否。彼女は一部始終を撮影したあと、カメラを周囲の客の方に向け「この羊どもをご覧なさい。皆マスクをしている」とコメントした。
同じくカリフォルニアのスーパーでは、マスクを拒否した客を店外に出そうとした店員が、腕の骨を折られた。
テキサス州では、マスクなしでバスに乗ってはいけないと注意された男が、客に発砲し、逮捕された。
ミシガン州では、ディスカウント・ストアの警備員が客にマスクをするよう求めたため射殺された。
アメリカはマスク軍と非マスク軍に分かれて内戦突入?ニューヨークタイムズのコラムニスト、ロジャー・コーエンは『マスク対非マスク』と題する激烈な論評を載せた。

今年6月までにアメリカで内戦が起こると予言した友人がいるが、両軍のユニホームまでは予想しなかった。リッジウェイのような民主党の砦ではマスク着用が標準になり、コロラドのトランプ領となるとマスク着用は、ウイルスに震え上がるリベラル・インテリどもを見分ける確かなしるしとして、嘲笑の的になるとは。この広大な指導者なき分裂国家全土で、顔を半分隠した責任感ある群衆と、マスクなき<自由か死か>の群衆が対決している。

アメリカの反ロックダウン・デモ、武装開店、マスク戦争を見ると、自由という美しい言葉に含まれた醜い差別思想があからさまになる。ギリシャ、ローマの昔から、自由とは隷従する者と区別される特権であり、支配の徴なのだ。だからトランプ大統領は決してマスクをしないし、ペンス副大統領は病院訪問の際、規則を無視してただ一人マスクをしなかった。日本でも特権階級には下々と違う自由がある。国民が外出自粛を要請されているとき、安倍総理夫人は大分に旅行する自由があったし、検事長は密室で賭けマージャンをする自由があった。

アルベール・カミュ

疫病とは自由の喪失である。カミュは『ペスト』の冒頭で定義する。

(オランの)人々は謙虚さを忘れていただけだ。彼らは何でもできると思っていた。できるとは、つまり疫病がありえないことを前提とする。彼らは仕事を続け、旅行の準備をし、いろいろなことを思った。だから、未来と移動と議論を抹殺するペストを、どうして考えられるだろう?彼らは自分たちを自由だと思っていたのだ。そして疫病のある限り一人として自由ではないのである。

疫病は生物としての人間を襲う。仕事したり話し合ったりするのは精神としての人間であって、精神には自由がある。しかし、疫病の前で、人間はネズミやノミと同様、百パーセント科学法則に従うただの生き物にすぎず、自由があるかのように思うのは幻想だ。
疫病支配下の人間は、自由なき集団として行動しなければならない。隔離命令を破る自由は隣人に死をもたらす自由、墓場への自由となる。だから、ミシェル・フーコに言わせると疫病は「完璧に統治されたユートピア都市」を実現する。これこそ政治権力の「夢」というわけだ。

2019年3月ニュージーランドのモスクで51人が射殺された事件の後、イスラム・コミュニティを訪れたアーダーン首相

では疫病は強権と親和性があるのか?中国は見事に新型コロナを制圧したが、ロシアのプーチン大統領は患者の激増にお手上げ。ポピュリスト・トリオのトランプ大統領、ボルソナーロ大統領(ブラジル)、ボリス・ジョンソン首相(英国)は、そろって最悪の成績。死者の数で世界のワーストスリーを競っている。知識人エリートを馬鹿にすることで大衆の喝采を浴びるのが彼らの得意技だから、専門家の意見を聞くかわりに、ウイルス対策として「漂白除菌剤を飲もう」などと言い出す。敵を作り出し、国民の憎悪を動員するのも得意技だが、ウイルスは幾ら脅されてもひるまない。初めウイルスを「素敵な敵」と呼んで闘いを挑んだトランプ大統領も、いまは仕方なくWHOと中国に攻撃の的を移し、アメリカ人の憎悪を煽っているが、その間に死者は増えるばかりだ。
対照的に成績の良いのは女性が率いる国である。メルケル首相のドイツ、サンナ・マリン首相(34歳)のフィンランド、蔡英文総統の台湾は隣国に比べ際立って死者が少ない。アーダーン首相のニュージーランドは、流行を押さえるだけでなく根絶してしまった。
なぜ女性リーダーは疫病対策が巧みなのか?

1)女性をトップに選ぶ国は、もともと政治制度が柔軟で、多様な価値観に対し包容力がある。感染症対策成功の秘訣は、集団思考に陥り盲点が出来るのを防ぐため、外からも多様な意見を取り込むことだと言われるが、女性リーダーは謙虚に色々な意見に耳を傾ける能力がある。メルケル首相は、多くの疫学モデルを比較検討し、韓国の検査・隔離プログラムの成功例からも学んだ。

2)男性リーダーは、恐れを知らずパワフルな<男らしさ>のステレオタイプに縛られるが、女性にはそのハンディがない。アメリカの保守系ジャーナリストによると、「もしトランプ大統領がマスクをすれば、『中国から侵入した目に見えない敵(ウイルス)に直面し、アメリカはなすすべもない。大統領すらマスクのかげに縮こまるしかない』というシグナルを送ることになる」のだそうだ。

3)上からの一方的命令でなく、共感を呼ぶコミュニケーション能力。ニュージーランドのアーダーン首相は、感染がほとんど広がらないうちにロックダウンを決めた。それもクリケット・ボールが隣の庭に入っても取りに行けないほどの厳格さ。早すぎる決定だったかも知れないのに、国民は納得して従った。首相は毎晩、2歳の娘を寝かしつけた後、くつろいだセーター姿で国民に語りかける。スマートフォン・ライブ・セッションである。

家にいて下さい。感染の連鎖を断つことで、あなたは人の命を救うのです。

こんな調子で、アーダーン首相は、国民一人一人に優しさ、思いやりを持って行動するよう説いた。彼女がフェイスブック・ライブを使って国民に直に話しかけるのはコロナの時が初めてではない。2017年首相に選ばれて以来、フェイスブック・ビデオを活用し、翌2018年6月には、生まれたばかりの娘と一緒に、病院から出るところをライブで流して、現役首相がママになる覚悟を見せた。アーダーン首相は、政治を取り上げても、まるで家族が食卓でおしゃべりするときのように、語りかける。新型コロナについては、医学的説明の合間にジーンとくるエピソードを交え、禁止事項を発表する中に、ママらしいジョークを入れる。超人気のこのライブ・トークの絶大な効果もあって、首相の提唱する「私たち500万人のチーム」=優しい挙国一致が実現し、ウイルス根絶を達成したのである。

自由を失った苦しみ、ウイルスという自然の威力の下に隷属状態になった苦しみの中に、何か高貴なものが見えはしないだろうか?
ときには、自分の自由を放棄して、苦しみに参与する生き方もある。数年前のことだが、フランスのラジオで、ユダヤ人の女性作家が「私には自由ということが分かりません。」と言うのを聞いてショックを受けた。過去と現在、未来のユダヤ人の苦難が、個としての彼女自身より重いのだ。
(2020年5月30日)

(2020/6/15)