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漢語文献学夜話|Democracy from the Heaven|橋本秀美

Democracy from the Heaven

Text by 橋本秀美(Hidemi Hashimoto)


儒家の思想を端的に表す四字熟語は?と問えば、多くの中国人が「内聖外王」と答えるかと思う。内面は修練を通して聖人に成ることを目指し、外的には社会秩序維持に参与して平和世界の実現を目指す。単に自己の内面だけ完成させればよいという宗教ではなく、単に統治技術を磨く政治学でもない。大体、そんな意味だろう。
この言葉、中国語としては非常によく使われるが、日本ではそれほど普及していない。そこで、『四庫全書』などのデータベースを検索してみると、大本の出所である『荘子』を除けば、唐代以前の文献資料の中にこの言い方は全く見られず、宋代から用例がちらほら見えるに過ぎない。恐らく、近代に儒家思想を再解釈し、その復興を主張した人たちが強調した言葉なのではないかと思う。
一般に、現代人の伝統文化に対する印象は、近代以降に形成されたものだ。中国も例外ではない。だから、儒家といえば社会実践を重視し、政治に心を砕くものだと決めてかかる人が多く、古代の文献学者についても、その社会実践・政治思想を掘り起こそうとし、それでも何も出てこなければ儒家としてはもの足りないとして軽視されたりする。多くの中国人が抱いている伝統観念は否定しようとして否定できるようなものではないが、それに捉われる必要は更に無い。


平岡武夫という人が、戦争中に『経書の成立』という本を書いた。大阪の空襲で版が焼けること二度、その度に書き直し、終戦後に第三版がようやく日の目を見たという命がけの著作。幸いよく読まれて、版を重ねたから、今でも古本が非常に安く手に入る。中国社会・文化の根幹・根底を論じようとしたもので、主に経典『尚書』を取り上げて、天による天下秩序を天子を中心とする王朝が代行する、という形を周王朝が作り、その後の中国政治思想の大枠となった、としている。手の届かない高みにある天は、実際には下々の民衆を意味した。中国の王朝交代は、天命が革まるという意味で革命と言われるが、実際には民衆が暴政に耐え切れず、暴動が治まらなくなった時に、天がその王朝を見放したということになる。

デモ民衆に向かって賛同を表現する警察

民意が政権を交代させる、という結果だけ見れば、何やら民主的な制度のようにも見える。中国の歴代王朝は、いずれも専制体制には違いないが、民意には常に気を使っていた。しかし、この民意は最終的な絶望的暴動によってしか反映されない。その精神を最もよく表すと私が思う言葉は、『荀子』に引用される古い成語で、「君主というものは、人民という海に浮かんだ舟である。舟は海の上に乗っていられるが、海が荒れれば舟は沈むしかない。(君者舟也、庶人者水也、水則載舟、水則覆舟)」。統治者は、正に薄氷を踏む思いで、日々民衆の動向に神経を尖らせているが、民衆と協議して政策を決めたりすることは有り得ない。民衆は、人に襲い掛かる恐れの有る獣・虫の群れや、いつ津波を起こすか分からない海のような、非人間的自然物と捉えられている。


偶々見ていた後漢の『潜夫論』という本に、こんな言い方が有って、妙に共感させられた。「世の中は君主次第であって、人民が変えることができるものではない。人民は君主の好みに従い、利に従って生きるものだ。人民は、衣食が全うできない生活は出来ないし、衣食が満たされる生活を捨てることも出来ない。」確かに、食えなければ話にならない。
これは、或る意味では人民に対する責任免除である。社会のルールは全て朝廷が決める。人民には、そのルールに挑戦することは許されない。同時に、ルールの良し悪しに人民は責任を持たないので、好きなだけ文句を言いながら、ルールの中で勝手に振る舞えばよい。誰もが自分の得になるようにと考えて動く結果、道徳が崩壊し、風紀が糜爛したとしても、それは人民の責任ではない。こういう意識は、案外現在の日本にも根深く有るのではないか。

George Froyd遺族に謝罪する警察署長

南北朝から唐は貴族が、宋以降は科挙官僚が、社会の主役だった。彼らはエリート層であり、人民ではないから、社会に責任を負っていることを自覚し、自負していた。『論語』に「君子は義に喩く、小人は利に喩し」と言うのがそれで、「君子」はエリートを、「小人」は人民を指す。
しかし、読書人が実際に朝廷の政治を左右できたのは宋代だけで、それ以降、権力機構は巨大化し、個人の力は極めて弱く、文人学者で政治の中枢に入った人は少なく、科挙も初級試験は通っても上級試験に受からず官僚になれなかった多くの人々は、官僚に家庭教師などとして雇われて何とか糊口を凌ぐしかなかった。そうなれば、これも『論語』に「取り立てられれば活躍するが、取り立てられないなら大人しくしていよう(用之則行,舍之則藏)」という処世態度でいるしかない。
日本で「四民平等」が謳われて武士=エリート階層が崩壊したのに続いて、中国でも科挙が廃止され、読書人=エリート階層が融解した。世の中「小人」ばかりで、誰もが「利」に従って動き、「義」を考える人が居なくなってしまえば、社会秩序は維持できない。「内聖外王」こそは、市民社会の担い手が持つべき思想として相応しい、と近代に儒家思想を復興させようとした人々は思ったのかもしれない。

政府の擁護者を務める往年の香港映画スター

現在の中国でも、履歴書などに政治階層を書く欄が有る場合が有り、共産党員でない一般大衆であれば、その欄には「群衆」と書くことになっている。形の上では、社会道徳の模範となり、政治で社会をリードするべきエリート階層と、政治・社会に責任を持たない民衆の区別が、現在でも続いている。現在の日本で、政治家や官僚が「エリート」だと思う人はさすがに少ないと思うが、非政治家・非官僚の一般の人々も、政治や社会に対して自分が影響力や責任を持つものだとは思っていないだろう。そのくせ、日本は民主主義で、欧米と価値観を共有している、などと言われることも有る。その結果、「小人」である政治家や官僚が民主主義の看板を掲げて、自分たちの「利」の為の政治をしながら、責任だけは民衆に押し付けているのだとしたら、中国的専制と西洋的民主の悪いとこ取りだ。
社会・政治は種々に複雑な形態を取っている。専制か民主かという看板に気を取られてはいけない。現在の台湾は、民主制が非常によく機能しているように思われるが、そこには規模の問題も有り、日本で台湾のような政治が実現できるとも思われない。当然ながら、日本は日本の道を進むしかない。その際、中国社会・文化のあり方を知ることは、日本の特殊性を考える上でも、極めて重要だと言えよう。

 (2020/6/15)

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橋本秀美(Hidemi Hashimoto)
1966年福島県生まれ。東京大学中国哲学専攻卒、北京大学古典文献専攻博士。東京大学東洋文化研究所助教授、北京大学歴史学系副教授、教授を経て、現在青山学院大学国際政治経済学部教授。著書は『学術史読書記』『文献学読書記』(三聯書店)、編書は『影印越刊八行本礼記正義』(北京大出版社)、訳書は『正史宋元版之研究』(中華書局)など。