特別寄稿|バーゼルの売春宿(前編)〜パウル・ザッハー財団訪問記(4)|浅井佑太
バーゼルの売春宿(前編)〜パウル・ザッハー財団訪問記(4)
Basler brothel: Part 1 – Report on visit to the Paul Sacher Stiftung(4)
Text & Photos by浅井佑太(Yuta Asai)
その日、デジャン(諸事情から仮名)は眠れぬ夜を過ごしていた。
彼が寝泊りしているその部屋はとあるビルのオフィスの一室にあって、オフィス自体は日中は歯科クリニックとして営業している。バーゼルの中心街からそう遠くない場所に位置していて、すぐ側にはパウル・ザッハーが設立したことでも知られる音楽大学バーゼル・スコラ・カントルムのキャンパスもある。
財団での調査を終えて帰宅したデジャンは簡単な夕食をとり、それから荷物の整理をした後、ベッドに入って目を閉じた。まず初めに、ケラケラと笑い声が聞こえた。もう11時を回っていたが、ビルに面した大通りで何人かの若者が騒いでいるようだった。デジャンは寝返りを打った。狭いベッドがミシミシと軋む音がする。代わりに、笑い声は消えた。時たま自動車が大通りを駆け抜けていく音が聞こえたが、前ほどは気にならなかった。けれどもすぐに、今度は太鼓を叩く音がした。
――こんな時間にまだ練習してるのか?
デジャンは思った。
深夜までぶっ通しで練習する音大生なんて珍しいものではなかったが、それにしても馬鹿にうるさかった。と思うと、また男女のケラケラと談笑する声。自動車の通る音も余計に気になってくる。耳介のうぶ毛に絡みつくように、聞こえてくる音が絡み合った。
「それで結局、一睡も出来なかった」
朝、ザッハー財団の広間で出会うと、デジャンは大体そんな話をした。
「それは気の毒に」
と僕は答えたが、同時に少し面倒なことになったな、とも思った。というのも、その宿は僕がデジャンに紹介した宿だったからだ。結局は使わなかったがリストアップしていた宿の連絡先を、急遽バーゼルに来ることになったデジャンに2週間ほど前に伝えたのだった。
その場限りの交流で終わってしまう他の来訪客と違い、同じケルンの大学にいたデジャンとは1年近く前から顔見知りで、友人とまで言わなくとも会えば話をする程度の仲ではあった。僕より(多分)10歳以上は年上で、ドイツの永住権を持っているだけあって流暢なドイツ語を操った。そうと知らなかったら、母語話者だと思ったかもしれない。主に作曲の教師として生計を立てていたが、同時にスイスの現代音楽の作曲家クラウス・フーバーの研究もしていた。
「友人の家に泊まってるんだったら、俺だって何も言わないよ」
そう言いながら、ビジャンは家から持ってきた水筒のコップからコーヒーを注いだ。「だけど安くないお金を払って借りてるんだ。それに初めて電話した時、家主は静かな場所だって言ってた。騒音には敏感だから、前もってちゃんと確認したんだ」
「それは申し訳ない」
と僕は言ったが、気にせずデジャンは話を続けた。
「多分、音大の学生がずっと騒いでるんだ。調査のために来たのに、こんなのじゃ何もできない。1日ちゃんと眠れないと、次の日に集中して研究するなんて無理だ。多分今日は何もできないよ。宿代だけじゃなくて、バーゼルで暮らすのは安くはないんだ。それに仕事の休みが次にいつ取れるかだって、分かったもんじゃない」
「きっと、君の耳が良すぎるんだよ。作曲家はそういう人が多いらしいね」
と僕は何とか話の途切れ目を探して口を挟んだ。「神経質すぎるんだよ」なんて、うっかり言わないだけの分別はあったのだ。デジャンは皮肉っぽく微笑むと、それでその話は終わった。
* * *
初日から災難に見舞われたデジャンとは対照的に、僕の方はと言えば、比較的気分良く調査を続けていた。
ちょうど1ヶ月が過ぎたくらいの頃で、色々と勝手が分かってきた時期でもあった。がむしゃらに目の前にある楽譜を写していた時と比べれば、ある程度は勘も働くようになっていたし、落ち着いて考えを巡らす余裕も少しはあった。それに何より、面白い発見もいくつかあった。
中でも、ウェーベルンのあるオーケストラ歌曲の初稿を見つけたのは、自分で言うのも何だが悪くない発見だったと思う。普通は出版作品の異稿なんてとっくの昔に誰かが見つけてしまっているものだが、その作品の初稿は〈ピアノリダクションの浄書譜の草稿〉という、ちょっと凝った形で残されていたので人目につかないでいたのだ【図参照】。〈オーケストラ版の初稿の浄書譜〉そのものは散逸しているから、盲点になりやすい。
少し専門的な話をすると、この歌曲は〈転回カノン〉という技法を使って書かれている。要するに、幼稚園児の頃、誰もが嫌々みんなで歌わされた「カエルの歌」の輪唱をもっと複雑にしたものだと思えばいい。よく見比べてみると、初稿と最終稿ではカノンの転回軸が異なるので、結果として楽譜上の音符に少なくないズレが生じたのだ。
――これは美味しい!
と僕はちょっと興奮した。
このクラスの作曲家の作品の初稿が新たに見つかることなんて、そう滅多にあることではなかったし、論文のネタにもなりやすい。題材的にも結構いいジャーナルを狙えるかもしれない。
身も蓋もない話をすれば、財団の調査の目的は基本的には論文のネタ探し以外の何物でもないし、場合によってはここで1本論文が出せるかどうかで、翌年以降に奨学金が取れるかどうかが変わってくる。慢性的に資金難にあえぐ僕にとって、それは誇張でなく生きるか死ぬかに直結する問題でもあった。詰まるところ、
「バーゼルは綺麗な街だったし、作曲家の自筆譜も間近で見れて感動したよ! ハイ、お土産のチョコレート♪」
なんて何の収穫もなく帰って、能天気に土産話をしていられるような気楽な状況ではないのだ。そしてそれはもちろん、僕に限ったことではなかった。だからピリピリした雰囲気はいつも少なからずあったし、時には閲覧資料を巡って司書と来訪者のちょっとした諍いが起こることも珍しいことではなかった。結構みんな必死なのだ。
そういうわけで、何はともあれ、かねてから顔見知りのデジャンがやってきたことは、それなりに嬉しいことではあった。実際に作業をする部屋は別の場所だったが、休憩時間になると僕たちは大体、バーゼル大学の食堂に足を運んで昼食を食べた。慣れない英語を使う必要もないし、親友とは言わないまでも共通する話題も多少はあった。というより、そもそも、デジャンはひとり淀みなく喋り続けたので、僕は適当に相槌を打っていればよかった。亡命移民だったこともあってか、音楽や研究のことよりも、政治や社会情勢に関する話題が多かったように思う。
彼が研究していたクラウス・フーバーはスイス生まれのれっきとした西洋の作曲家だが、1980年代以降、次第にアラブ音楽に傾倒していったことでも知られる。微分音への興味が端緒となったようだが、デジャンによれば、それはもっと倫理的な深い問題に根差していたらしい。それゆえアラブ音楽への関心も宗教的な側面にまで及び、単にイスラム的な情緒をなぞった異国趣味の作曲家とは一線を画する。実際にフーバーの作品には、イラク戦争のような政治的な問題が契機となって書かれたものが多い。
「80年代のスケッチを見ると、フーバーがどうやってアラブ音楽を消化しようとしたのかが分かる」
そう言って、デジャンは一度僕にフーバーのスケッチを見せてくれた。ウェーベルンのものと比べるとかなり大きな五線紙には、アラブ音階を使った実験の断片が無数に書きとめられていた。試行錯誤の痕跡は楽譜の五線をはみ出し、それは何枚もの大判の五線紙に渡って続けられていた。
正直に言うと僕には彼の説明は難し過ぎてあまり理解できなかったが、デジャン曰く、フーバーの初期の問題意識は西洋とアラブの異なった音階・音楽理論の隔たりをいかにして埋めるかにあった。とはいえ、それは西洋の音楽システムの中でアラブ音楽を捉える、と言った単純なものではないのだと言う。「アラブ音階を単に西洋のシステムに取り入れればいいってわけじゃないんだ」とデジャンは付け加えた。
「アラブ音楽は俺が子供の頃から慣れ親しんだ音楽だから、正直に言うとフーバーが間違ってアラブ音楽を解釈している部分も目に付くよ。西洋の研究者はあんまり分かってないみたいだけど。でも少なくともスケッチを見れば、フーバーが単にアラブ音楽のシステムを表面的に取り入れようとしたわけじゃないことは理解できる」
とはいえ、財団でのデジャンの調査はこれっぽっちも進んではいないようだった。
目ぼしいスケッチが見つからなかったわけではない。結局初日以降も、毎晩騒音の問題に悩まされて、碌に睡眠を取れていなかったからだった。
「俺が前に来た時に泊まった宿はもっと財団から近かったし、静かなところだった。値段だって少し安かったはずだ」
会うたびに、そんな愚痴を聞かされる羽目になった。少し非難のトーンが感じられたが、どうすることも出来なかった。別に自分が悪いわけじゃないし、と僕は心の中で正当化に努めた。
騒音の原因が明らかになったのは、大体1週間が過ぎた頃だった。耐え兼ねたデジャンがとうとう警察に電話したのだ。
「あいつら、アダルトビデオの撮影をしてるんだ!」
朝、財団で会うなり、デジャンは興奮気味に言った。
「自分の上の階だよ、誰もいないって聞いてたけど、あそこは売春宿だったんだ。夜客を取るだけじゃなくて、ビデオを回してるんだ。実際にカメラを搬入してるところだって見たんだ」
デジャンは怒り心頭だったが、僕はおかしくて思わず笑ってしまった。それから少し考えて、
――売春宿ってドイツ語でBordellって言うんだ、知らなかったな。やっぱりデジャンって自分よりずっとドイツ語上手いよなぁ。
とちょっと感心した。多分一種の混乱状態だったのだ。
(第5回に続く)
(2020/5/15)
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浅井佑太(Yuta Asai)
1988年、大阪生まれ。2011年、京都大学経済学部経済学科卒業、2017年、京都大学文学研究科博士課程、単位取得満期退学。専攻は音楽学。