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特別企画|原爆の図丸木美術館のこと|丘山万里子

原爆の図丸木美術館のこと
Maruki Gallery For The  Hiroshima Panels

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:原爆の図丸木美術館

原爆の図丸木美術館

「僕は美には興味がないです。」
原爆の図丸木美術館の学芸員、岡村幸宣氏から聞いた言葉。
この3月、栃木での『山田耕筰と美術展』(コロナで中途閉幕)でお目にかかった折のことだ。一通り見終えてから、少し教えてください、と声をかけた。恩地孝四郎のシリーズの、どれが気に入りましたか、などというミーハーなノリで。
「そういう風にはあまり絵を観たことがないので」とおっしゃりつつ、ご自身の見方を語られた。「美には〜」は、あいちトリエンナーレを話題とした時だと思う。

丸木美術館は丸木位里・俊『原爆の図』展示の私設美術館だ。氏を知ったのは昨春、京都での公開シンポジウム「『戦争/暴力』と人間—美術と音楽が伝えるものー」で。すでに何度か書いたが、私は子供の頃、丸木俊の著作『生々流転』(1958/実業之日本社)を手がけた父に言われ、出版記念パーティーで俊に花束を渡した。
『原爆の図』の作者と知ったのがいつだか覚えていない。真っ赤と真っ黒と燃える人型におじけ眼を背け、以来ずっと見ていない。父は加藤隼戦闘隊の整備兵で満州にわたりビルマで終戦を迎え、従軍記2冊を残したが、酔っ払うと軍歌を歌い、戦争の話をするのがたまらなく嫌だった。
京都から帰り、いつかこの美術館には行こう、と思った。絵は見たくないけれど。
そのあと、久しぶりに訪れた広島、被爆ピアノ、そのピアノでの藤倉大の新作の話とかいろいろあったが、埼玉の自然に囲まれ、夫妻が晩年を過ごしたこの美術館に行くのは、たぶん感傷旅行でしかなかったろう。

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私は3月初めに都響5月公演用プログラムの執筆依頼を受けていた。5月8日に三善晃『反戦三部作』を山田和樹でやるという。開催を危ぶみつつ、改めて3作に向き合った。『レクイエム』(1972)から『響紋』(84)に至る12年についてはこれまでも色々書いてきた。戦時の記憶「河原遊びで機銃掃射に死んだ友達生きた自分」は、この3作の「語り」として今や誰もが言う。が、数年前、合唱作品を俯瞰する仕事があり、そこで別の景色を見た。三善の晩年はほぼ合唱で埋まる。絶筆は『その日-Augusut6-』(2007/谷川俊太郎詩)だ。
パリ帰り西欧音楽洗練美の旗手三善に、その整いの明晰を打ち砕く「戦時」が突如噴出したのは確かに『レクイエム』だが、パリから帰国の羽田、眼下の「黒」に彼は「墨絵の世界に墓碑を立て、墓守になる」(57)と思ったという。それを始点と私は見たが、いや、疎開時二人一組で育った妹に、飢えた彼はリンゴを隠した、それが最初の受傷でそこから流れる一筋の血は最後まで止まることはなかった、と知る。兄29歳自死を望んでの軽井沢の宿に、妹は「勘でここだと思った」と訪い連れ帰る。そうして書かれた合唱曲『嫁ぐ娘に』(62)に、すでに<戦いの日々>の「やめて!やめて!」の叫びがある(妹もまた嫁いだばかり)。
『反戦三部作』の前には、帰らぬ人を想う『王孫不帰』(70)、ビアフラの悲劇をテーマとした児童合唱『オデコのこいつ』(71)がある。『三部作』のち、原爆投下日を素材とした『夏の散乱』(95)から4年連続で書かれた交響四部作の最後『焉歌・波摘み』の波間には対馬丸の子らが浮かぶ。いつまで墓碑の周りをぐるぐる周り続けるんだ!という声を私も周囲に聞いた。「生きている人がみんなそこに来てくれるか、と思ったら、そんなこと知らないよ、と」。2005年、三善は対話の中でそう笑った。妹について彼が語り始めたのは、妹の弔いをすませての70歳すぎだ。
「りんご」と「機銃掃射」。合唱とオーケストラ。生涯かけたその音の墓碑をこの状況下で私たちはどう聴くか。酷烈な音の炸裂殴打の中にわずかに響くわらべうたの歌声。書くうち、『原爆の図』の赤と黒が背後にせり上がった。
岡村氏にこの音たちを聴いて欲しい、とその時思ったが、やがて中止の連絡が来た。

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『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』

5月4日「丸木美術館存続の危機」の記事が朝日新聞に載った。
なんてことだ。栃木でお会いした時、丸木も休館とは聞いたが存続の危機?すっ飛んでいったところで、外観を眺めるしかないだろう。
「僕は美には興味がない」と、『原爆の図』への想いにあるものは何なんだ。大急ぎで今年3月に氏が出された『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』(新宿書房)を取り寄せ読み始めた。

学生の頃、初めて美大の実習で丸木に行ったこと。子供の頃、教科書の口絵で『火』と出会い、「炎に包まれた赤ん坊の、ただごとでない描写、妖しく、怖く、美しい絵にひきこまれて、目を離せなくなった記憶がよみがえってきた。」そうだ、私もこれを見たのだ、家にあった本で。「妖しく、怖く、美しい」そういう感受をこの少年は持った。

氏は大学を卒業後、丸木の学芸員への誘いを断り、「僕はヨーロッパに行くんです」とスペインに渡り、自転車で各国の町や村を回る。画家の生家やゆかりの地でささやかな、素顔にふれる展示を見るうち、「文化の源泉は、壮麗な美の殿堂ではなく、地方の小さな美術館にあるのではないか」と思うようになる。帰国して、丸木に入った。「この場所には、この場所でしか生まれないものがある。」(PROLOGUE春の嵐)
日誌は2011年3月11日から2016年11月30日で終わり、2018年秋の「EPILOGUE秋の夕暮れに」で閉じられる。300人ほどの人々(及び作品)との遭遇は、ほとんど自転車で漕ぐような感覚、ちょっと止まっては話し込み、のように語られる。

東日本大震災発生時、丸木では企画展『第五福竜丸事件— ベン・シャーンと丸木夫妻』を展示していた。5日前、乗組員大石さんと詩人のA・ビナードさんのトークでの言葉。「誰もが被爆者になる世界を生きている」(大石)「私たちは皆、第五福竜丸に乗っている」(ビナード)。
続いて目黒区美術館開催予定『原爆を視る』中止の知らせが入る。
4月に入り、東京で映画『第五福竜丸』の音楽担当の林光ピアノ・コンサートを聴く。5月緊急企画『チェルノブイリから見えるもの』。『風しもの村』の展示とともに来観客が増える。

文字を追いつつ立ちどまり、思い巡らす。チェルノブイリで被爆した子らの歌舞団チェルボナ・カリーナの公演、売られていた子らの画集を思い出し、いわきでの子ども音楽会のあと、「今日の音楽の色って何色?」と小学生らに聞いたこと。その子らの村が過疎で原発招致に二分され、今なお分断にあるのをあとで知り打ちのめされた。
六本木に現れた<ルツェルン・フェスティバル アーク・ノヴァ2017 in 東京ミッドタウン>。ワインレッドのドーム内、ピアソラ、ビゼーなどが奏され、客席のお洒落な若者達を前に福島市長が福島での開催時(2015)「津波や原発で傷ついた心がいっとき辛さから解放された」と言ったっけ。
と、こう書いて行くともう、とめどない。一つ一つが全部、自分の中に結ばれてしまう。
ゆえ、とんでもなく端折る。

2011.12.11 chim↑pom展の会場風景

2011年Chim ↑Pom(チンポム)。
2008年原爆ドーム上空に飛行機雲で「ピカッ」という文字を描き騒動を起こしたグループ。「一見軽薄そうな彼らの雰囲気は、この美術館には不似合いな気がした」「賢さとしたたかさ。それを、どう判断したらいいのだろう」。だが展示に集まる若い世代の圧倒的な数を前に「“正しさ”と“危うさ”の境界を疾走していく彼らのことを、これからもヒリヒリとした思いを感じながら、追い続けていくことになるだろう。」

安藤栄作。
いわきの海のアトリエを失った安藤の銀座での個展の後、引越し先の奈良明日香村をたずねる。70過ぎて絵筆をとった位里の母スマの絵を「すべての命がぎっしり詰まって、みんなが一律に存在している」と語るこの人は「“人間の強欲の証”である原発を鎮め、本来の自然へ解き放していけるようにと祈りを込めて、浜岡原発を望む砂丘や、大飯原発に続く雑木林、高速増殖炉もんじゅの見える砂丘などに、人知れず、自作の小さな彫刻を埋めているという。」

2015.06.13《原爆の図》に歩み寄る退役軍人

2015年6~11月、米国巡回展。『原爆の図』の旅。ワシントンDC、ボストン、ニューヨーク。ワシントンDCで。『米兵捕虜の死』の前で崩折れた94歳退役軍人の言葉「日本は中国で何をしたか」。「加害であれ、被害であれ、そこに国境線を引いて見る者の立場を分かつのは、ボーダーレス化の加速する現代にどれほどの意味を持つのだろう〜せめて『原爆の図』は、芸術という“回路”で、言葉や民族、政治の壁をしたたかにすり抜けて、同じ人間として絵と向き合う機会を持つことはできないだろうか」。

2016年那覇、対馬丸記念館で。
「子どもの頃、父が買ってくれた『つしま丸のそうなん』という児童書を読んだことを思い出す。海の上を漂流する子どもたちを描いた久米宏一の表紙画が強烈で、なかなか頁をめくれなかった。自分にとっての“戦争のトラウマ”は広島よりもまず沖縄だった」。
(1ヶ月ほど前、私はドキュメンタリー映画『沖縄戦』試写DVDで、漂流から生還した少女、今は老婦人の語りを聞いたばかり)

日誌の最後は『原爆の図』を見た数日後、亡くなった少女の母との再会が記されている。さらに近くの河原で数人の少年が一人の少年の命を奪う事件があったこと。
「『原爆の図』の前に立った若者の命が失われると、どうにもやるせない気持ちになる。彼らを救うことはできなかったのか。絵画がもたらすはずの想像力は、身近な命を助けることさえできないのか。誰もいない静かな展示室、秋の日の入りは早い。『原爆の図』の前に立ちながら、悶えるように考え続ける」。

EPILOGUE。50年余の歴史を経て、今なおたった一人の学芸員は、この小さな美術館の行く末を案じつつ「『原爆の図』を新たな視点から読み解くための扉は、少しずつ開きはじめている」「現代は現代の『原爆の図』の意味と役割がある」と結ぶ。

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原爆の図丸木美術館は、その場所に、在り続けなければならない。

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臨時休館・緊急支援ページ
2020年5月5日 開館記念日のビデオメッセージ

関連記事:三善晃の『反戦三部作』(月刊都響5,6月 p.10~15)

(2020/5/15)