評論(連載5)|大阪からベルリンへ(番外編)|藤井稲
「卒業したらおばさん」からはじまった大学生活(番外編)
Text & Phots by 藤井稲(Ina Fujii)
インターネットが普及し、誰もがいろいろな情報を手にし、海外の情報も簡単に入ってくる時代である。しかし情報が多いからといって海外志向になる訳ではなく、逆に日本では若者の内向き志向が強くなっていると言われている。今、世界中がコロナウィルスで混乱状態にあり、国の行き来も止められる状況を目の当たりにすると、外国に行き言葉も文化も違う国で生活することをためらう空気はもっと加速していくのではないかと思う。
海外に関する情報はあふれているが、写真や文字では伝わらないその土地のにおい、千差万別な人々の表情、その時にしか味わえない社会の空気であったり、メンタリティーや考え方の違いなど、実際に行ってみて分かるさまざまな「違い」の発見がある。
幸か不幸かわたしがドイツに渡ったときはインターネットが今のように普及していなかった。予備知識が少なかった分、体中のアンテナを張ってドイツでの生活をはじめたことが懐かしく思い出される。それまで大阪の音楽大学の学生だった私が、ベルリンの大学留学で驚いた「違い」を今回は紹介したい。
<ベルリンの音楽大学>
留学当初、私はベルリンのハンス・アイスラー音楽大学ピアノ科入学を目指し、入試の数か月前からベルリンの音大でレッスンを受けながら生活していた。まずドイツで違和感を覚えたのは、音大に「クラシック音楽を学ぶ」というある種の特別感がなかったことである。今まではレッスンごとに用意する謝礼は新札で持っていくのが当たり前で服装もきちんとしていたが、こちらはジーパンを履いてリュックサックを持ったラフな学生だらけであった。レッスンでは「こう演奏しなさい」と教えるだけではなく、「ここはこう思うけど、あなたはどう?」といった対話する感じで行われていた。受け身では成立しない授業に私が戸惑ったように、どうしてドイツに学びに来たのか、と自問自答してしまうことが多くの留学生にもあったのではないだろうか。そしてドイツ音楽留学といえば、ドイツ人がたくさんいる環境を想像していたが、実際に来てみるとアジアからの留学生の多さに驚いた。音大ではドイツ語だけでなく、韓国語や中国語をはじめ様々な言語が飛び交い、ここはドイツか?と思うほど先生も学生も多国籍だったのだ。
一般的に音楽大学に行く=経済的に豊かな家庭で育った人というイメージがつきまとう日本だが、ドイツでは必ずしもそうではなかった。それは音大生にかかる学費の違いもあるのではないだろうか。ベルリンの音大の入学試験に合格し、学生となって学費の振り込み用紙を見たとき目を疑った。半期の学費がわずかわずか1万円くらいだったと記憶している。しかも学生証があればベルリンの公共交通機関がすべて無料で乗れ、映画館、図書館、博物館、演奏会、健康保険等々、生活する上でさまざまなところで学生が優遇されていた。また学内演奏会では、ほとんどの学生が質素な黒っぽい服装で演奏していた。日本の演奏会のような華やかな衣装で出ようものなら笑われかねない雰囲気があった。私の一年足らずのベルリンの音大在学中には、バレンボイム、ペンデレツキ、アーノンクール、チェリストのペルガメンシコフなど錚々たる音楽家の特別レッスンも聴講することができた。それは事前予約が必要だったりと入場制限があるわけでなく、ふらっと寄れるような場であった。ベルリン・フィルの演奏会、オペラ劇場だって同様である。日本では高価なチケットを買わないと入れない演奏会でも立ち席なら当日1000円ほどで安く手に入ってしまう。この「違い」は、本場ドイツだから当然かもしれないが、一人でも多くの人に提供しようというクラシック音楽の敷居の低さに、いかに文化を大切にしようとしているのかを感じた。
<ドイツの大学>
大きな「違い」として感じたもうひとつは教育システムである。ドイツの大学は入試がないので大学間に格差がなかった。ゆえに就職に有利な大学ランキングみたいなものも人々の意識の中に存在しない。何を専攻したかや修士や博士などの学位にはこだわるが、どこの大学を卒業したかということには、一般的にあまりこだわらないのである。一方、音楽や芸術大学では厳しい入学審査があり、ごく僅かな人のみが合格することができる。それはプロを育てるための教育機関であり、入学後高い専門性が試されるからである。一般と音大の入学方法は違っても、ドイツの大学全般に共通するのは、卒業することが難しいことである。
わたしがベルリンで音大から一般大学に編入した時、入学式やオリエンテーションはなく、どうやって単位を取るのか、レポートをどう書くのか、どの授業を履修しないといけないかなど、人に聞き調べながら知っていった。私が在籍していた時期はまだ単位が取れまいが、何年大学にいようが、試験を受けまいが催促通知が来るわけでなく、すべて個人の責任であった。卒業までの長い道のりを前に、ドイツの大学の事情をよく知っている日本人からは「卒業したらおばさん」と何度も諦めるよう言われた。その頃はドイツ人でさえ卒業に何年もかかり、途中でやめる人が少なくなかったからだ。それだけ学生個々人が目的意識を持たなければならず、卒業までに自分で考え判断し、行動する力が求められたのである。交換留学生でなく外国人でありながら正規学生であった私のような学生がサポートを受けられる制度もなかった。今でも思い出すのは、学費の値上げで学生デモが起こり、大学が封鎖されて授業が休講になった時である。大学に入ってから半年後のことで、しばらく大学が再開されないと聞いて茫然としていた。後から聞くと、「ああ、◯◯先生のゼミなら地下鉄の駅とか街のどこかここかでやってたよ」とのこと。そんな情報どこで知りえたのだろうか。ただでさえ卒業までの道のりに途方もなく思っていた頃、今までの自分の常識で考えてはいけない、ということを実感した出来事だった。
自分から発信しなければ何も得られないドイツ。それは、日本の大学を卒業して来たからこそ身に染みて感じた日本とドイツとの「違い」であった。
(2020/4/15)
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藤井稲(Ina Fujii)
大阪音楽大学ピアノ専攻卒業。渡独後ハンス・アイスラー音楽大学ベルリンのピアノ科に入学。フンボルト大学ベルリンに編入し、音楽学と歴史学を学ぶ。同大学マギスター(修士)課程修了。強制収容所の音楽を研究テーマとし、マギスター論文ではアウシュヴィッツの楽団について調査し研究に取り組んだ。現在、府立支援学校音楽科教諭。