緊急特別企画|『山田耕筰と美術』展で|丘山万里子
『山田耕筰と美術』展で〜栃木県立美術館
“Kosçak Yamada and Art” ~ TOCHIGI PREFECTURAL MUSEUM OF FINE ARTS
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
資料提供:栃木県立美術館
栃木県立美術館で『山田耕筰と美術』展が開かれたので(1/11~3/22 新型コロナによる文化イベント中止・自粛要請により3月5日に閉幕)興味津々出かけた。
入口で音声ガイド代わりのスマホが手渡される。山田作品12曲が展示の順に適宜流れ、素晴らしい!と感嘆。全曲トータル2時間くらいとのことゆえ、自分のペースで適当にだが(曲目データは本文下)。展示は絵画、版画、書籍、資料など約300点に及ぶ。
以下、順を追っての筆者的ピックアップ。
【Der Sturm木版画展覧会と舞踊詩】
<ベルリン留学1910~1913>
まだ日本に居た盟友、斎藤佳三への葉書、書簡などが並ぶ。ここで留学前の作品『弦楽四重奏第1番ヘ長調』(’08頃)を聴く。眼前の展示と音楽とがイメージを広げ、山田その人が案内してくれるような気分。筆者の場合、かつての日本近代音楽館でさんざん資料を漁ったゆえ、一つの展示に付随する様々がよみがえりあたかも映画を見るごとく立体化するわけで、さらに演奏が日頃知る演奏家たちであれば、その時空間の豊饒は類がない。日なが1日ここで時を過ごせたら、とほぞを噛む。
斎藤との共作、交響詩『曼荼羅の華』(’13)を聴きつつ斎藤の台本筆跡、手帳にあるペン画の繊細な美しさに見惚れ…などやっているとどんどん時間は過ぎる。
<Der Sturm木版画展覧会>
帰国後二人はベルリンで預かったSturm画廊の木版画展覧会(’14)を開催したが、そこにはココシュカの素描集やポスター、カンディンスキーらが並び、彼らがドイツ表現主義に刺激を受け、それを日本に伝えようとした意気込みが知れる。
<未来社と山田アーベント>
象徴芸術愛好家の未来社同人、三木露風、西条八十らとの交友により山田の初の帰国演奏会が開催。東郷青児の『コントラバスを弾く』(’15)のキュビズムが目を惹く一方、長谷川潔の『ダンス』(’14)など初期木版画15点における音楽と舞踊の影響にはマチスを想起せずにいられない。
<「新劇場」と舞踊詩>
斎藤は山田に美術への窓を開き、演劇、舞踊など多彩な活動を共にしたが、小山内薫もまたベルリン時代からの友で彼が創設した「新劇場」には石井漠らが出演、山田は音楽舞踊監督を務めたが不入り、斎藤の装幀によるプログラム3点が残る。一方、舞踊詩『青い焔』(’22)から歌劇公演『タンノイザー』(’20)までロマンティックで美しい舞台衣装画14点が彼らの新たな創意を彩っている。本企画ポスターに使用された彼の写真は舞踊の構想を練る姿で、自ら「狂人じみた生活」との言葉。ここでは『青い焔』(’16)『若いパンとニンフ』(’15)『野人創造』(’22)『タンタジールの死』(’19)を聴く。敬愛するR・シュトラウスや帰国途上で聞いたスクリアビンの影響を感じさせる。こちらも不協和音を伴う内面表現など、彼らのモダニズムは当時理解されなかったが、次々新たな表現領域に挑む彼らの情熱が伝わって来る展示である。
【第2章 詩と音楽とその周辺】
<アメリカ公演 1918~1919>
野望に燃えた渡米は期待ほどでなかったものの、カーネギー公演を果たし足跡を残すあたり山田の自己プロデュース力はさすがだ。ラフマニノフ歓迎会で会ったプロコフィエフの手帳(’19)には山田のメッセージが旭日旗イラスト入りで「楽の路に勇猛に突き進むプロコフィエフに」、一方プロコフィエフは山田を「交響楽に才能はないが日本主題による歌曲が気に入った」と評しており、だろうな、と納得。気になったイラストは「太陽について一言」がプロコフィエフの求めであったからと後で知る。
<詩と音楽><恩地孝四郎と日響楽譜>(’27~’28)
筆者が最も圧倒された展示群だ。
『詩と音楽』創刊号での恩地孝四郎装幀の現代意匠の美しさは以前見て目に焼き付いていたが、その恩地の仕事がずらり並ぶ壮観!田中恭吉、藤森静雄ら3人による木版画と詩の雑誌『月映』における『抒情』連作10点がなんといっても斬新、色彩と形象のファンタジーが素晴らしい。ミロを想起しつつ、版画抽象表現の開拓者たる彼の位置を知る。『風によせてうたへる春のうた』(’22)を中澤桂が歌っている。
続く『音楽作品による抒情』6点には山田の他、諸井三郎作品、シュトラウス、ボロディン、ラベル、ドビュッシー、スクリアビン、サティが並ぶ。筆者的にはドビュッシー『金の魚』(’03)が好み(クレー『黄金の魚』を思い出しつつ)。『諏訪根自子像』(’46)は、まるでそこから彼女の音が響いてくるようだった(録音しか知らぬが)。山田の肖像版画『山田耕筰像』(’38)は、ありがちナルシスティック山田でない、深みある表情と眼光に軽い驚きを覚えたし、比すれば『北原白秋像』(’43)はむしろ通俗に思え、恩地独自の眼力があることにやはり打たれた。
日響楽譜『ベツレヘムの星』から始まる恩地装幀山田作曲・編曲63点のインパクトも凄い。中では『ながれ椅子』(西条八十詞)の青の色調、『松島音頭』(北原白秋詞)の書き割り風、『カッコ鳥』(野口雨情詞)のデザイン性などに恩地の意匠の豊かさを知る。
ここでは『からたちの花』『赤とんぼ』(辻輝子と中澤)、『中国地方の子守唄』(福島明也)、『松島音頭』(市原多朗)など9曲が楽しめる。
<セノオ楽譜><女性>
セノオ楽譜は竹久夢二『荒城の月』(初版’20)など12点、伊東深水1、斎藤佳三1が並び、それぞれの画風を見せる。
この第2章は山田の音楽と美術家たちのハーモニーが渾然と響き、大戦前の「幸福な時期」を改めて実感させるものであった。もちろん『詩と音楽』での北原白秋との協業、言葉と音楽の模索は今なお一つのモデルだが、その周囲にこうした若い才が花を咲かせていてこそ、実るものもあったのだと思う。
総合文芸誌『女性』(’24)も大正期のモボ・モガを彷彿させる。
【第3章 霊楽堂の構想—音楽の法悦境】
山田の思い描く理想のホール建築の構想を担ったのはまだ無名の若き川喜田煉七。「絶対の孤独と沈黙」による「瞑目」の聖堂が山田の説く「音楽の法悦境」だが、その構想の特異はワーグナーの「総合芸術」に対し「融合芸術」、西欧とは異なる音楽宗教(宗教音楽でなく)の器だ。スケッチや模型を眺めつつ(’24)、筆者は戦後’53年仏教系の相愛女子短期大学教授となった山田の宗教観を思わずにいられない。東西新旧ごたまぜの「法悦」(キリスト教、仏教、新興宗教にも胸襟を開いた)こそ、このホールそのものであったろう。実現はしなかったが。
【第4章 幻のパリ公演とソ連での演奏旅行】
<あやめ><ソビエト訪問とショスタコーヴィチ>
パリで初演されるはずだったオペラ=バレエ『あやめ』(’31)は招聘元の資金難で流れたが、清元『明烏花濡衣』パーシー・ノエル脚色(オペラ『夜明け』台本作者)のこの作品が上演されていたら、国際舞台でのその後の邦人作曲家への評価も異なっていたのではないか。打ち合わせ写真に見る眼鏡の山田、臆することなく野心と野望を主張する邦人作曲家は今日なお少なかろう。
失意の山田はソビエトを経由、ショスタコーヴィチと交遊を深める写真などが展示。ショスタコから『交響曲第1番』(’25)のスコアを贈られ帰国後に早速、新交響楽団を指揮、初演している。さすが素早い。
【第5章 舞台の仕事—歌劇・演劇・演奏会】(’29~’40)
第2章が日本歌曲の王、山田の足跡であったなら、歌劇と交響楽がこのコーナー。29年創立の日本楽劇協会の活動に力を入れ、自作オペラ『堕ちたる天女』(’29)以降次々に『椿姫』(’30)など外来ものを上演した。小山内が開いた劇場音楽の窓は彼の死によっても閉ざされることなく、築地小劇場『ハムレット』(‘33)などの音楽担当の他、歌劇での若手育成も含め実験的な活動(金曜会)に反映されている。並ぶのはポスターやステージ写真だが、やはり歌舞伎座で上演の『堕ちたる天女』、歌劇『夜明け』(のち『黒船』)(’40)が印象深い。音楽は『堕ちたる天女』よりの7曲中、「青年の歌」に山田の歌声も聴ける。歌曲、交響楽、演劇で得たものの実りの形を見ることができよう。
筆者はここで山田の山田らしい仕事は終わったと見るが、やはりそれは前人未到の地平であったと思う。『黒船』から現代邦人オペラまで、どれほどの歩みがあったか。言葉と音楽の問題、作劇法など、彼の上をゆくものは少なかろう。
【第6章 日本とドイツのはざまで】
<新しき土><戦後の肖像画>
大戦前夜。A・ファンクとの日独共同制作『新しき土』(’37)のスチル写真が並ぶ。この映画にはファンクの日本名所観光ツァー版と、これに反発した伊丹万作編集版の2版があり、筆者は東京国立近代美術館フィルムセンター(国立映画アーカイブ)で一度に観て複雑な思いを抱いたが、本企画ではファンク版が2月に2回集会室で上映されている。欧州留学で西洋かぶれした帰国男が許嫁(原節子)との破談を進め、絶望した彼女が花嫁衣装を手に火山火口に身投げ、あわやの時に改心した男に抱きとめられ、二人で新天地満州へと夢をつなぐ話。このファッショと国民精神鼓舞ナチス宣伝映画に山田は苦心して音楽をつけたが、意図に反し削除変更を強いられている。だが、いざ大戦が始まれば、先頭を切って国民精神高揚に数多の戦争歌を量産し続けた。
戦後の肖像画(’57/伊藤清永)と恩地のそれを見比べれば、ほぼ20年の年月の意味が知れよう。48年脳溢血で倒れる以前に、音楽家としての山田はすでに終わっていたのである。
ここでは『悲しき西風』など4曲だが、北の地の貧農らを集めた満州開拓団のかの地での過酷を知る者には、明るい歌声が空しく響く。
にしても今回の企画、西欧に触れて新たな創造世界の開拓に沸き立つ芸術分野の若き群像の姿と、先行する山田、小山内、斎藤ら世代の輝きが山田の音楽とともにあかあかと響き立ってくる。その「幸福」を何が、どのように奪ったのか。
近視眼的に見るなら1923年関東大震災から3年後に大正から昭和へ、その5年後31年満州事変、37年日中戦争、41年太平洋戦争と、天災から20年にならぬ間に世界戦争が勃発している。2001年 NYテロ、2011年東日本大震災、その9年後の令和2年の今を、戦争前夜と捉えるのはあながち的外れではあるまい。
現在、新型コロナで美術館も閉鎖、コンサートホール公演も中止となっている。このウィルスが、戦後75年私たちが築いてきた現代社会、世界のシステム全てを根底から覆す「利己」と「相互不信」への根源的な問い、すなわち「人類の限りない欲望」(戦争はその最も象徴的なものだ)への警鐘でもあること、そこから何を見出し、新たなヴィジョンを生み出さねばならないのか、人間の叡智の協働の可能性について、帰路の長い車中、展示の光芒を反芻しつつ深く考え込んだのであった。
(2020/3/29記) (2020/4/15)
参考文献
◆『山田耕筰と美術』展覧会カタログ 2,500円
(本書は素晴らしく美しく、この時代を眺めるに有用ゆえ興味のある方は購入をお勧めする)
http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/visit/catalog/c076.html
◆楽曲データ
- 弦楽四重奏 第1番 ヘ長調 1908年頃
Ⅰ~Ⅲ楽章
松原勝也(第1ヴァイオリン)、浜野孝史(第2ヴァイオリン)、坂口弦太郎(ヴィオラ)、菊池知也(チェロ)
2003年録音 提供:日本楽劇協会
*東京音楽学校時代の作曲 - 交響詩「曼陀羅の華」1913年
湯浅卓雄(指揮)アルスター管弦楽団
2000年録音 Naxos
『日本作曲家選輯 山田耕筰』
提供:日本楽劇協会 - 「青い焔」1916年
東 誠三(ピアノ)
2004年録音
提供:日本楽劇協会 - 「若いパンとニンフ」 1915年
5つのポエムⅠ~Ⅴ
東 誠三(ピアノ)
2004年録音
提供:日本楽劇協会 - 「野人創造」1922年
矢崎彦太郎(指揮)東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
2004年録音
提供:日本楽劇協会 - 「タンタジールの死」1919年
Ⅰ~Ⅴ
松原勝也(第1ヴァイオリン)
浜野孝史(第2ヴァイオリン)
坂口弦太郎(ヴィオラ)
菊池知也(チェロ)
早島万紀子(オルガン)
2003年録音
提供:日本楽劇協会 - 「風によせてうたへる春のうた」より 1922年
Ⅰ.青き臥床(ふしど)をわれ飾る(中澤 桂)
Ⅲ.光に顫(ふる)ひ日に舞える(中澤 桂)
腰塚賢二(ピアノ伴奏)
2000年録音
提供:日本楽劇協会 - 「からたちの花」 (辻 輝子)
「赤とんぼ」 (辻 輝子)
「青い小鳥」(辻 輝子)
「あわて床屋」(辻 輝子)
日響管絃楽団
コロムビア・オーケストラ
コロムビア室内楽団
1943-52年録音 日本コロムビア
『山田耕筰の遺産6』
提供:日本楽劇協会 - 「この道」 (中澤 桂)
「野薔薇」 (中澤 桂)
「曼珠沙華」 (中澤 桂)’
「中国地方の子守唄」(福島明也)
「松島音頭」 (市原多朗)
腰塚賢二(ピアノ伴奏)
2000年録音
提供:日本楽劇協会 - 「堕ちたる天女」1929年
1.妖精の長の歌(四家文子)
2.少年の歌 上(奥田良三)
3.少年の歌 下(奥田良三)
日本交響楽協会管弦楽部員
1929年録音 日本コロムビア
『山田耕筰の遺産8』
提供:日本楽劇協会 - 「堕ちたる天女」1929年
4)青年の歌(山田耕筰)
5)父と子の争い 上(照井栄三)
6)父と子の争い 下 (小森譲)
7)天女の合唱 (藤本政子ほか)
8)第七の天女と老爺の問答(関種子、小森譲)
9)結尾の歌 上 (関種子、小森譲)
10)結尾の歌 下 (関種子、小森譲)
日本交響楽協会管弦楽部員
1929年録音 日本コロムビア
『山田耕筰の遺産8』
提供:日本楽劇協会 - 映画「新しき土」より1937年封切
悲しき西風(辻 輝子)
なげき
青い空見りゃ(松平 晃)
野の花よりも(二葉あき子)
コロムビア・女声合唱団
コロムビア・オーケストラ
1936年録音 日本コロムビア
『山田耕筰の遺産9』
提供:日本楽劇協会