井上郷子ピアノリサイタル#29 ~松平頼則・松平頼暁ピアノ作品集|西村紗知
井上郷子ピアノリサイタル#29 ~松平頼則・松平頼暁ピアノ作品集
SATOKO INOUE PIANO RECITAL #29 Piano Works by Yoritsuné Matsudaira & Yori-Aki Matsudaira
2020年3月1日 東京オペラシティ・リサイタルホール
2020/3/1 Tokyo Opera City, recital Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 後藤天/稲木紫織
<演奏> →foreign language
井上郷子(ピアノ)
<曲目>
松平頼則(1907-2001):
ピアノのための16の小曲 ~日本民謡のスタイルによる子供のためのやさしいピアノ曲(1969)
呂旋法によるピアノのための3つの即興曲 から Ré 壱越 (1987/1991)
律旋法によるピアノのための3つの即興曲 から la 黄鐘 (1987/1991)
短歌による二つの前奏曲(作曲年不明)
ピアノのための運動 ~雅楽の旋律線による(1999)
松平頼暁(1931-):
マルチストラータ(1990)
井上郷子のための名簿(1997)
ピアノのための史跡(2007)
ピアノのための3章 (2019)委嘱作品・初演
松平頼則・松平頼暁という2人の作曲家が切り拓いてきた、日本の現代音楽における一本の道。この道は、病弱で黴臭いポエジーとも、神秘主義ともロマン主義とも決別せんとし、西洋的なものと東洋的なものとの融合に代表される、異なる要素の共存を目指す折衷主義を傍目に、進んでいく。「雅楽」や「短歌」といった日本のアイコンを素材にするにせよ、他人の作品をコラージュ的に内包しているにせよ、それでも折衷主義から離れていられる。ただしこれは、それらの作品が、ピアニストの身体において発火するあらゆる瞬間においてのこと。
この日の会場をあとにするとき、そんなことを思っていた。……非折衷主義的ピアノ音楽は、オリエンタリズムにもナショナリズムにも与しない。もちろんヨーロッパの前衛音楽のどんなイズムにだって――繰り返しになるが、ピアニストの身体との関係性が露になれば、である。
この日がもし、管弦楽や室内楽の個展だったら、また違う印象を抱いていたと思う。非折衷主義的という印象は、ピアノという楽器の、あるいはまた、井上郷子という演奏者の特性によるものだった。
そもそも、ピアノという楽器による表現には特段プライベートなところがある。ピアニストが作品に即した態度をもつほどに、ピアニストの存在は、消えていくどころかその作品との密着の記録として開かれていく。プライベート流出としての演奏。その際、作品における形式原理・素材・主題は、それがどういう領域に由来するものであれ、ピアニストの身体、生理現象、しぐさやナルシシズムのなかを通り抜けて純化されていく。すると、民謡も雅楽も、飾りでなく内容でもなく、確かに形式であった。揺れ動いて、ときどき止まったり途切れたりするような形式。つまりこの時、止まったり途切れたりすることを含め要らない音など一つもない。つっかえてしまったり、いなせない音があっても、そういうのも含めて全部私の音。こうしてピアニストの身体との関係において、非折衷主義は完成する。
少しでもノイズを取り繕ったり、秋波を送るようなしぐさが井上のタッチにあったりしたら、確かにもっと心地よい音楽になっていたかもしれないけれど、それは折衷主義的であるという意味で、よくない音楽となっただろう。他方、作品に何か意味としてくみ取れるものがあったとしても、ピアニストと作品の間のコミュニケーションには、少なくとも我々の方に広がってくるような類の意味はない。ピアニストと作品との間の関係性は、結局彼ら二者だけのもの。
そんなふうにして、この日の演奏会はずっと内密かつ濃密な時間が続いていた。
前半は松平頼則の作品が演奏される。
さて、最初の《ピアノのための16の小曲 ~日本民謡のスタイルによる子供のためのやさしいピアノ曲》。16の曲のいずれも、表情は節制されていて、なおかつ幼稚にもならない。トッカータで遊ぶ1曲目「からす」、メロディーとリズム的な裏打ちの伴奏からなる2曲目「指あそび」、ぽつぽつ飛び交う水辺の「蛍」。「子守歌」は減七度の響きのなかに不規則なリズムの伴奏が入って、憂えた音調。7曲目「水車」と8曲目「鬼ごっこ」はカノン、10曲目以降は近現代の和声感が存在感を増していく。13から最後16曲目は、少し主題のリズムを変えるなどするが、一貫してセリエルな趣。見ず知らずの家のアルバムに収められた16枚のセピア色の写真を、順番に見ているかのような時間だった。
《呂旋法によるピアノのための3つの即興曲 から Ré 壱越》並びに《律旋法によるピアノのための3つの即興曲 から la 黄鐘》。旋法の周りに様々な出来事が取り巻いて、永遠の時間が流れる。バスが他の音をけん引するような構造ではないからだろうか、旋法によって中心音のようなものは示され続けるが、それを取り巻く音やリズムが偶然的なものに感じられる。アクセントや強弱も、偶然的で唐突なものもあったけれどずっと、柔らかな物腰の音楽。
バスやコントラプンクトという線的な音楽思考があまり感じられないのは、続く《短歌による二つの前奏曲》と《ピアノのための運動》でも同様で、しかし他方でその音楽思考の特異さゆえに、擬古典主義を免れているようなところもある。いずれにせよ、ここまでの前半の演奏では、ピアニストのダンパーペダルのコントロールがさえわたり、響きの静謐さがいかなる瞬間も保持されていた。
後半は松平頼暁の作品。
おもむろに手拍子からはじまる《マルチストラータ》。あらゆるダンスミュージックといくつかの既成作品とをマッシュアップしたような音楽。それをピアニストのたった一つの身体で行うのだから、とんでもない運動量、そして歪み。ひとつも、ピアニストが主体的に踊ることができる瞬間は存在しなかった。結果的に、動性ということから非常に遠い音楽という印象。
《井上郷子のための名簿》には、井上に影響を与えた人物が音列となって登場する。グリッサンド、トリル、クラスターなどその都度指示される特定の奏法によって、名簿が綴じられている。目まぐるしいほどの情報量。情報処理に際して多量のノイズ。されど、スタティックな音楽。
《ピアノのための史跡》では、あらゆる契機が記号として宙づりになったまま。冒頭で示される逡巡の記号は、徐々に広がる。強く破裂し、記号はメロディーと融合する。最後の方には声と手拍子が加わる。この日のうちで最も謎めいている。
最後は委嘱初演《ピアノのための3章》。全て、色彩や香気の向こう側の出来事。作曲者の亡くなった令嬢の名前が音名に変換され、この作品の素材となっている。2曲目の訥々とした一続きのアタックは、遠いところへ向かう道。一つ一つ踏みしめるようにして、彼方へ。3曲目は断片になったレクイエム。この「3章」でなされたことについては、晩年様式という言葉もなんだか軽々しく思えてしまい、結局のところ美しいと言うよりほかない。これは、作曲家が提出した一つの結論。
この日、演奏会の聴衆は、たまたまピアニストと作品との間に居合わせただけだったのかもしれない。というのも、音楽は存在するばかりで、生成変化しなかった。その高踏的で硬質な構造体は、最初から、どこかある空間に存在していて、我々はたまたまそこに足を踏み入れてしまうというかたちでこの日の音楽に出会ったのだろう。二度と帰ってこない時間と空間をあとにして、そんなことを思う。
(2020/4/15)
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<Artist>
Satoko INOUE(Piano)
<Program>
Yoritsuné Matsudaira(1907-2001):
16 Pezzi per Pianoforte~nello stile delle canzoni popolari giapponesi per bambini~(1969)
from 《Trois Improvisation sur le mode de Ryo》 Ré 《Ichikotsu》壱越(1987/1991)
from 《Trois Improvisation sur le mode de Ritsu》 la 《Ôjiki》黄鐘 (1987/1991)
Deux préludes d’après Tanka (the composition year unknown)
Movement pour piano(1999)
Yori-Aki Matsudaira(1931-):
Multistrata(1990)
List for Satoko Inoue(1997)
Historic Spots(2007)
3 Pieces for Piano(2019)∼world premiere