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坂本光太チューバリサイタル vol.2 V・グロボカール作品演奏会|西村紗知

坂本光太チューバリサイタル vol.2 V・グロボカール作品演奏会 暴力 / ノイズ / グロボカール
Kota SAKAMOTO Tuba Recital vol.2 Gewalt / Geräusch / Globokar

2020年3月1日 北千住BUoY
2020/3/1 Kitasenju BUoY
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by Okujoh & Sakamoto

<演奏>        →foreign language
坂本光太(チューバ他)
馬場武蔵(指揮)*
根本真澄(ソプラノ)*
アルバロ・セヒェルス(クラリネット)*
佐野幹仁(打楽器)*
下島万乃(チェロ)*
水野翔子(エレクトリックベース)*

小野龍一(演出)
増田義基(音響)
植村真(照明)
宮崎葵衣(舞台デザイン)
山下直弥(制作)

<曲目>
ヴィンコ・グロボカール
 《エシャンジュ》
 《ヴォワザンストゥルマンタリゼー》
 《レス・アス・エクス・アンス・ピレ》
 《変わらない一日》* ※日本初演

 

令和二年三月一日。新型コロナウイルス流行下における各方面に対する自粛要請を受け、数々の演奏会が中止・延期を余儀なくされつつあったこの日。多くの人でごった返す北千住BUoYの地下空間はさながら秘密結社の集会所であった。ヴィンコ・グロボカール作品上演の機は熟した。今こそ同時代人に対して行われる抑圧への告発はなされねばならない。演奏会の成功は初めから約束されていたも同然だった。

©Okujoh

前半は坂本のソロ。《エシャンジュ》《ヴォワザンストゥルマンタリゼー》《レス・アス・エクス・アンス・ピレ》の三作品。
赤幕の向こうで何かが行われている。《エシャンジュ》は複数のマウスピースを交換したり、シンバルを使用したりする作品とあるが、赤幕に演奏者の姿が覆われていて、それがチューバなのかも、どういう特殊奏法なのかは明かされないまま進む。持続的に楽音と噪音とが入り交じって、ひたすらアジタートに、赤幕の向こうから楽器の声が聞こえてくる。ときどき金属音がして、それは鞭打の音のように思えた。どうやら赤幕の向こうでは、何者かが何者かに暴行を加えているらしい。楽器の声が最高潮に達したとき、赤幕は剥がされる。

©Okujoh

しかしそこにいたのはただのチューバだった。すべて、たった一人のチューバ奏者の仕業。呆気にとられる観客をよそに、続く《ヴォワザンストゥルマンタリゼー》(「器楽化された声」の意)では、バスクラリネットへの金管楽器の重音奏法の応用が遂行される。バスクラリネットは人外の存在となり、誰にも伝わらない言語をひたすら喋る。《レス・アス・エクス・アンス・ピレ》 は再びチューバで、呼気と吸気の特殊奏法。息苦しさが音楽表現にそのまま転用される。
と、ここまで前半のパフォーマンスで、グロボカールの基本的な書法が披露された感があった。このあと後半戦、より政治的な色彩の強いパフォーマンスで、この書法がどのように応用されていくか。

©Okujoh

《変わらない一日》は、トルコで実際に起こったクルド人への言語弾圧事件に基づくシアターピース。移民の女性がいかにして軍隊に捕らえられ、どのような尋問、暴行を受けたかが音楽劇として再現される。ソプラノは被害者の移民の女性、打楽器は拷問官、バスクラリネットは尋問官、チェロはもう一人の被害者、チューバは法律、そしてエレキベースは無関心な世間。

©Okujoh

ベルカントのソプラノは、打楽器に鞭打たれる。チューバは常に同じ旋律を吹き、法律の融通の利かなさを表す。抑圧されるソプラノはホーミーで歌う。やがてバスクラリネットの尋問が始まる。ソプラノとバスクラリネットのやり取りは激化し、観客の耳をつんざく。チェロは片手が縛られているので、うまく喋ることができない。幾度目かの激しいアンサンブルで、ソプラノは地に横たわり、沈黙する。しばらく、複数のメトロノームを交えた、不気味で静かなアンサンブルが続く。やがてこれはまた最高潮に達する。するとソプラノが再び目を覚ます。再び、バスクラリネットも喚く。今度は本当にソプラノが絶命する。最後、バスクラリネット奏者が立ち上がり、一人ずつ順番に目隠しをして、この音楽劇は終わる。この出来事は無かったことになる。会場に流れる、被害者の手紙の音読。音楽劇の終幕ははっきりとは示されない。おもむろに観客は立ち上がり、それぞれの日常生活へと戻っていく。

©Okujoh

そんな中私はひとり、この演奏会中もそれ以降もずっと考えている。演奏者の実存を恢復させようと、ジャズと前衛音楽の垣根を移民のように越境するグロボカールの猛々しいテクストを、移民の経験をしていない今の若者が担うという、この跳躍について。遠いトルコという国で起こった移民の女性に対する弾圧を再現することを通じて、演奏会に居合わせた人々の当事者意識を問いただすという、そうした跳躍についても。跳躍なんてことは、どのような演奏会でも起こることだ。ベートーヴェン作品のピアノ・リサイタルにだって。しかしながら政治的表現に多くの表現が委ねられていたこの日の演奏会では、その跳躍ということ自体が、跳躍の不可能性として前景化してくるように思えてならなかった。つまり、それらの跳躍に際し、どれほどたくさんのことが抜け落ちていってしまうことか、と。誰にも彼女の苦しみは理解できない。かといって、彼女のことを可哀そうにと思うことは、当事者意識ということから最も遠い。移民の人々を取り巻く、複数の正義の複雑な絡み合いのことなども。

©Sakamoto

もちろんグロボカール自身と、《変わらない一日》で登場する移民の女性との間にだって跳躍はあろう。けれど、「移民」ということで結びついた、アイデンティティ・ポリティクスの表現だったということを、一旦思い起こしてもよいのではないかと思った。「世界市民としてこの弾圧事件について、代弁する権利があるのではないか」――そう言うのはきわめて簡単だ。遠い国の出来事だから。シティズンシップの理念だと、この類のパフォーマンスは自分たちの正義を再確認する儀式となるのが関の山だろう。
とはいえ、跳躍に際し無限に抜け落ちてしまうものを一つ一つ拾い集めることが芸術の役割であるように思う。そのようにして表現が成り立つと、表現全体はいびつで難解になって当然だろうに、この日の表現には矛盾が無かった。もちろん、耳を覆いたくなるような音はたくさんあったけれど。これは、グロボカールのテクストの欠陥のような気がする。どれほどその瞬間には爆発するような表現をもつ音だって、音楽として成立させるがために反復されたりすると、表現はだんだん目減りしていく。最後の最後に演奏者が割を食うテクストだと思う。
もっと、音に対するフェティシズムを。政治的言説に回収されない自分たちだけの音をどれだけ持てるだろうか。おそらく芸術の役割はそこから始まる。

(2020/4/15)

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<Artist>
Kota SAKAMOTO(Tuba and etc.)
Musashi BABA(Conductor)*
Masumi NEMOTO(Soprano)*
Alvaro ZEGERS(Clarinet)*
Mikihito SANO(Percussion)*
Mano SHIMOJIMA(Cello)*
Shoko MIZUNO(Electric Bass)*

Ryuichi ONO(Director)
Yoshiki MASUDA(Sound)
Makoto UEMURA(Lighting)
Aoi Miyazaki(Set designer)
Naoya YAMASHITA(Manager)

<Program>
Vinko Globokar:
 Échanges
 Voix Instrumentalisée
 Res/As/Ex/Ins-pirer
 Un jour comme un autre* Japan premiere