カデンツァ|音楽家の騒音性難聴への朗報|丘山万里子
音楽家の騒音性難聴への朗報
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
世界各地が新型コロナ恐怖に覆われ音楽界も苦闘中だが、だからこそ春の朗報、音楽家の騒音性難聴問題に関する明るいニュースをお届けする。急ぎ知りたい方は文末から、自分とは関係ないと思われる方は文頭からお読みいただきたい。
3年前、本誌で執筆した『耳が壊れる、音楽が壊れる』(2017/2/15)、掲載後、年毎のアクセス集計で全記事中2018年2位、2019年1位と、その数の増加に驚いていた。問題を抱えている方々が手掛かりを求め飛んでくるのだと、胸がキリキリ。
私は前回、コラムを以下で締めくくった。
何れにしても、音楽を仕事とする人々、それを楽しむ人々の健全な耳を守るために、例えば、どこかのオーケストラがきちんと日頃のデータを取り、音楽家たちの騒音性難聴を防ぐための手立てを真剣に考えて欲しいと思う。
一方で、肥大化する音響に歯止めをかける「音楽の美しさ」への鋭敏な意識もまた、必要ではないか。
防ぐ手立ては。
まずは音楽家たち自身が、自分は騒音性難聴になる可能性がある、という意識を持たねばならない。けれど、日々の練習や演奏に追われ、聴力の劣化を気にする間も無く、ある日、あれ?と気づいたらもう遅い、というパターンが実は多いのではないかと私は懸念する。聴力は演奏家としての死活に関わるゆえ、簡単に他人に言える話ではないから、独り鬱々と悩み、精神的にも追い詰められ鬱病発症となるのもよくあるケースだ。耳と脳は直結するゆえ、精神領域との連携も不可欠。私自身、突発性難聴で入院した病院で多くの音楽家たち(しかも若い)の姿を見てきたし、カウンセリングも受けた。
おおっぴらに声をあげられない彼らを救うには、周囲(オーケストラ、音楽教育の現場、スタッフ、プロモーター、劇場など)がちゃんとこの問題を理解し、防護の手立てを施すことだ。欧米の音楽家はとっくにイヤープラグで耳を防護しているし、それが常識であるのに、日本ではあまりに危機意識がなさすぎる(防護が常識はそもそも音楽環境としておかしいがそれはここでは措く)。
今、私たちの耳環境で何が起きているか。
世界保健機構 WHOは2019年2月に、かねてより警告していた若者の難聴問題を視野に、音量規制に関する国際基準を発表した。
スマホやパーソナル・オーディオプレイヤーで大音量の音楽を長時間聴き続けることによる聴力障害について、世界の12~35歳の半数近い11億人に難聴リスクが生じると伝えた。世界人口の5%以上(4億6600万人/大人4億3200万人、子供3400万人)が聴覚障害を抱え、2050年までに9億人以上(10人に1人)が聴力障害となると推定。その対処基準として、大人は地下鉄車内に相当する80デシベル(以下dB)、子供は75dBを1週間に40時間までを限度とした。つまり、地下鉄騒音のような状況に1日5.5時間以上いたら大人も子供も耳が壊れるということだ。
この報告は大音量で音楽を聴く人々、特に若者たちへの警告である。ロックやポップスのライブ参加以上に、日常的にイヤホン、ヘッドホンで音楽を聴き続ける習慣がどれほど耳に負担をかけているか。同時に、日々最新機器を開発・販売するメーカーへの注意喚起でもある。これは音を聴く側の話だが、前回触れたように出す側も、ロックやポップス領域は危機意識が高まってきており、イヤーモニターやイヤープラグ装着などで様々に自衛・防護している。
だが、クラシックはどうだ。水面下での口コミ情報はあっても、表に出てこない。本誌記事へのアクセスもそれを顕著に表しているのではないか。
何が問題か、手元の具体的な資料に触れよう。京都大学大学院研究チーム*による『TTSから見た楽器の音及び管弦楽が演奏者の聴力に与える影響』から(発表2000年といささか古いがこうした研究は稀少のようだ)。
職業性の騒音暴露(鉄道や航空機騒音など単発もしくは間欠的に発生する騒音に一定時間さらされる)による聴力低下の問題が音楽領域にまで広がり、海外での研究が進むのは1980~90年代のことだ。オーケストラ楽員の半数近く(58%)が職業性難聴と同様の聴力レベルを示した、という報告もすでにある(B.Ostriら”Hearing impairment in orchestra musicians.”1989)。
これら先行研究がもっぱら楽団員聴力測定に基づくものであるのに対し、京大チームは実際の音を用いた暴露実験により聴力への影響をTTSの観点から調査した。 TTSとは騒音性一過性域値変化の値で、楽器を一人で演奏する時の演奏者の耳の位置での音圧レベル、および楽曲を楽団で演奏する時の演奏位置での音圧レベルを測定し、その音が聴力へ及ぼす影響を表す。その算出にあたっては、演奏者の耳元とステージ位置でそれぞれ録音した音を被験者に一定時間聴かせることによりどれだけ聴力が変化するか、を調査した。実験は「実音」でなく、アマチュア・オーケストラに依頼し「録音」した音を正常な聴力を持つ被験者10名(19~30歳)に行っている。
委細は省略するが、まずは奏者の耳元で鳴っている楽器の各音量を以下に記す。
WHOが80dBを限度基準としたことを想起されたい。なお、dBAのAは 騒音評価方法。
バイオリン(violin ) 92.3dBA(左耳)
ビオラ(viola )83.5dBA(左耳)
チェロ(cello ) 80.3dBA
コントラバス(contrabass ) 76.8dBA
トランペツト(trumpet ) 104.0dBA
トロンボーン(trombone ) 94.3dBA
ホルン(horn)93.7dBA
チユ一バ(tuba )84.6dBA
ピッコロ(piccolo )98.ldBA
フルート(fiute)91.3dBA
クラリネット(clarinet )89.7dBA
オーボエ(oboe )85 .0dBA
バスーン(bassoon)85.0dBA
実験結果による結論は以下だ。
◆一人で弾く場合。
楽器8種類による暴露実験では、高音域にピークを持つ楽器ほど生じたTTSは大きく、中でもトランペットとピッコロで特に大きい。各30分と60分後のTTSはトランペット12.4、14.7dB(最大15dB近い聴力低下)、ピッコロ5.9、7.1dB。ちなみにトランペットの騒音レベルは104dB、ピッコロは98.1dB、バイオリンは92.3dB。また、演奏者の1日あたり練習時間に相当する4時間の TTS計算ではやはり高音域の出やすいバイオリン、トランペット、ピッコロに最も大きな TTSが予測された。
◆オーケストラで演奏中の場合。
ブラームス『交響曲第4番』第1楽章、第2楽章による1時間の暴露実験では両曲合わせて82.4~100.5dBAで、先行するOstriらの値と一致すると報告。また、演奏位置については中央付近にやや大きな TTSが見られるがそれほどの差はないと結論づけている。
何れにしてもこの一過性変化が永続性(PTS)へ、難聴へとつながる危険を楽員は常に抱えているということは確かだ。
オーケストラに限らない。耳元で鳴らすバイオリンはビオラより危険度が高いとの報告があるが、ソリストも同様であること、さらに最近はピアニストにも障害が出ていることを医学領域から聞いている。
私はどこかの楽団が、現場での実音実験を試みデータを取れば、現況の問題が明瞭になるだろうと考え、その実施を切に願っていた。
同時に前回記事で紹介したロック、ポップス領域で使用されている防護用イヤープラグがクラシックでも有用であるかどうか(すでにソウル市立交響楽団で採用支給)の医学領域での判断が得られれば、少なくとも現況打開の一つの選択肢となると考え、知人の耳鼻咽喉科医K医師に相談してみた(後で知ったのだが、氏は日本耳鼻咽喉科学会理事など歴任、米国、イタリア留学など国内外で名の知られた方であった)。ほぼ1年前のことだ。
そして先日、朗報が届く。
K医師の勤務する仙台の病院にミュージシャン外来を開設した、と。
昨冬、前述のイヤープラグ製作者O氏とK医師を含む耳鼻咽喉科スタッフが懇談の後、K医師とバイオリンを嗜むS医師の耳鼻科咽喉科医2名がこれを試用、音楽家の騒音難聴問題への理解を深めた結果、専用の検査装置を新規導入、音楽家専門外来開設の運びとなったのだ。
また、同病院に聴覚過敏で受診してきたピアニストがこの製品の使用により改善に向かい、有用性を証する事例となり手応えを得たとのこと。
つまり、音楽家の難聴予防と聴覚過敏(一般を含む)の相談窓口ができたのだ。
ミュージシャン外来の詳細は本文下に記す。
もう一つ、新たな取り組みがある。
東京都交響楽団がこのイヤープラグの試用を開始しているのだ。
O氏は2017年11月末に騒音性難聴に関するレクチャーと製品説明を楽団員に行い、2018年2月に希望者を中心に楽器セクションに偏りのないように選抜された16名の製品を作成、その試用を受け、さらに第2次トライアルとして同年12月希望者19名に追加作成、現在に至っている。
実音実験調査でデータを得ることは難しいだろうが、少なくとも難聴問題が楽団や楽団員に認識され、それを防ぐための選択肢として具体的な動きが出てきたことは、大きな一歩と言えよう。
音響の肥大化や過剰聴取が引き起こす難聴は、音楽が巨大な消費に組み込まれていることを意味する。それがどれほど健全な音楽の創出、享受を蝕み歪ませているか。同時に、私たちの脳を、心身を侵食しているか。
世に喧伝される新機種イヤホン、ヘッドホンにしても、周囲を断ち切り自閉的空間の中で際限ない快楽を流し込む装置として消費の加速に加担、かつ、人間のあり方(自他の関係性)にまで影響するものだ。
音楽を志す子供達は1日8~10時間の練習も普通だ。加えて、スマホから始終好みの音楽を聴く習慣も持つ。それが柔らかな耳と脳に、どれほどの負担をかけ続けるか。
本来はそこから考えねばならない問題だが、そんなことを言ったところで教育システムや世界規模の消費社会が急に変わるわけでもない。
それなら、現況を少しでも改善、手当する方法を模索したい。
ちなみに米国ではアーティストやサウンドエンジニアなど音楽専門家のためのオーディオロジスト(聴覚士/聴覚専門家)を養成し、そのネットワークの構築を開始している(米国が先進であるのは、被害が「先進」であったゆえに過ぎない)。
日本でも音楽大学、楽団、プロモーター、劇場など音楽家を育て、抱えるスタッフの中にこうした専門家が一員として入り、常に彼らの状態を指導管理できるような態勢ができることを願うばかりだ。
同時に、仙台のような音楽家専用窓口が各地に開設され、一つのネットワークが構築されればと思う。
(2020/4/15)
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◆医療法人寶樹会 仙塩利府病院HPより
令和2年4月からミュージシャン外来を開設
宮城郡利府町青葉台2丁目2の108
電話番号022-355-4111
<耳鼻咽喉科>
音楽演奏家(プロ・アマを問わず)の聴覚を守るため通常の検査機器では測定できない高周波域の聴力を測定できる装置を新規に導入しました。これによって音楽活動に伴って起こりがちな難聴の早期発見を行います。また、ミュージシャンズ・イヤープラグ(演奏時に音楽が歪まない耳栓)などによる難聴の予防を行います。
新規(予約制):月曜日(午前)、火曜日(午前)
お近くの耳鼻咽喉科(開業医、病院)より紹介状を頂き、当病院地域連携室(直通:022-355-4679)までお申し込みご予約ください。
※予約制
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註 *:日本音響学会誌56巻2号 (2000) 掲載pp.105-114
青野正二、黒田克典、瀧波弘章、高木興一
論文:TTS か ら見 た楽器 の 音及 び管弦楽が 演奏者の聴 力 に 与 え る影響
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図案出典:新耳鼻咽喉科学2013 南山堂
説明会写真提供:ジェイフォニック株式会社