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イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル| 谷口昭弘

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル| 谷口昭弘
Ivo Pogorelich Piano Recital

2020年 2月16日 サントリーホール
2020/2/16 Suntory Hall
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)

<演奏>        →foreign language
ピアノ:イーヴォ・ポゴレリッチ

<曲目>
J.S.バッハ: 《イギリス組曲》第3番ト短調 BWV808
ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第11番 変ロ長調 op. 22
(休憩)
ショパン:《舟歌》op. 60
ショパン:前奏曲 嬰ハ短調 op. 45
ラヴェル:《夜のガスパール》

 

サントリー・ホールに入ると、これから本番を迎えるポゴレリッチが、おそらく会場入りした時の服装でピアノに向かっていた。《夜のガスパール》など、本番で弾く曲をさらっていたようだった。本番前のこんな光景は初めてだ。そしてコンサート開始ベルの直後のアナウンスが男性だったのも珍しいが、その英語版がポゴレリッチ自身の声で行われたのも、これまた驚き。最後に「それでは演奏会をお楽しみください」といったところで会場も不思議な盛り上がり。しかし彼自身によるイントロダクションは、不思議とフレンドリーな空間を作り出し、和やかな雰囲気になった。

そんな中で始まったリサイタルの1曲目はバッハの《イギリス組曲》第3番。オーケストラを感じさせる立体的な構造美を聴いた。ピアノだからこそ可能なのは、2つ以上の声部があるときのバランスの工夫で、<前奏曲>に関しては、ゼクエンツを多用する旋律声部と流れるバス声部を明確に弾き分けつつ、通奏低音として埋めることを前提として現れる和声的フレーズをほんのりとバス声部に乗せていく。<アルマンド>では流麗な線が上品な息遣いによって現れ、<クーラント>はソプラノ声部を中心に置きつつも、中声部・低声部を引っ張りだすようにして音楽を構築していく。<サラバンド>とその<変奏>には、バロック時代のテラス式ダイナミクスを密かに残しつつも、深まっていく瞑想度に耳を澄まさせた。<ガヴォット>はポゴレリッチらしいというべきか、旋律を滑らかに歌うというよりは、アクセントを随所にほどこして弾ませる作法が随所に聴かれた。切れ切れになる音も、聴き手がつないでいくことを想定しているのだろうか。<ジーグ>も同じ方向性で、うねりゆく音型からいくつかを取り出して「こんなところにも聴くべきゼクエンツ、隠れ旋律がある」ということを発見した喜びを共有しようとしていた。こちら側も、ついつい前のめりにそれを楽しんでいる。

つぶやくように始められるベートーヴェンの11番のソナタは、繰り返しを行うにしても、2回目には何が起こるか分からない面白さ。作品自体にそういった要素はあるのだけれど、ポゴレリッチの場合は、きっとそのようにやってくれる期待感を予期しつつ構える楽しさがある。じっくりと音と向き合い、噛みしめるようにざわめく展開部を経て第1楽章の最後までを聴くと、彼の演奏は、これまで聴いた誰よりも、この曲がピアノのために書かれたことを実感させた。筆者がベートーヴェンのピアノ・ソナタや弦楽四重奏を聴くと、どうしてもオーケストラだったらどう響くのだろうか、ということをつい考えてしまうのだが、今回はその類推をすることができなかったからである。
音の揺らしが顕著な第2楽章においても突発的なダイナミクス変化によるアクセントには語り口のうまさがある。ベートーヴェンが書いた音符がどうだとか、演奏習慣がどうだとかという、歴史上のマッピングの不可能性を聴いた。フィナーレは端正に始めつつ、不協和音に強いアクセントを当て、対位法が疾風怒濤へとつなげていく。全体としては、やはりピアニスティックな演奏というべきか。

プログラムの後半は、ショパンの《舟唄》から。序奏が一区切りした後は、ルバートを含みつつも舟を漕ぐ周期的な拍節を予期するものだが、ポゴレリッチの場合は、規則的なアルペジオから大きく崩れている。ただ終盤になって低音のオスティナートが豪快にドライブするまで聴き手を運んでいく駆け引きのうまさは驚くべきものがあり、描写の流れと純音楽的流れの間にある堂々たる齟齬に芸術表現としての可能性を感ずることになった。前奏曲にしても拍節を把握することを拒絶するような時間=リズム感覚に浮遊するメロディーの零れる音。その場に楽譜があったら何が起こっているのか急いで開いて確かめたくなる。

《夜のガスパール》においても、たゆたう感覚は顕著で、左手の旋律は自由に揺らぎながら進み、右手のアルペジオと別の時間で動いている。どのように整合性を取っているのか、あるいは取っていないのか。表面的には淡々としつつ濃淡を変転させる<絞首台>は、探りをいれるような冷静な反復音型が寒々とした光景を出現させる。恐ろしい、ただただ、恐ろしい。鬼気迫る<スカルボ>は、全体の流れは分かっていても、細部は自然現象のごとく、読めない展開。腹に響く低音に、掻きむしるような高音に翻弄されつつ、俗でも聖でもない、あるいはそういう区分さえ拒絶するような狂気というべきか。

ポゴレリッチは自らの音楽に耳を傾ける一流の音楽家であるが、書き記された楽譜に何を「聴く」のか、クラシックにおけるオーラル・トラディションの再考を迫るタイプの人だ。おそらく彼が「変態」とされる要因も、その辺りにあるのだろう。楽譜との照合を会場で行っている訳ではないし、実演の、楽譜からの逸脱の度合いを計ることに、あまり意味があるとは思えない。
一方で、この日のコンサートで演奏された演目の、他の演奏者による音の記憶が一種のテクストとなり、作品に対する深い没入を妨げてしまうことがあるのではないだろうか。一曲一曲におけるポゴレリッチの問いかけに感性と知性を打ち砕かれ、紙に記された音楽なるものが何だったのか、楽譜を改めて見回したくなる演奏会だった。

(2020/3/15)

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<Performer>
Piano: Ivo Pogorelich

<Program>
J. S. Bach: English Suite No. 3 in G minor BWV808
Beethoven: Piano Sonata No. 11 in B-flat major op. 22
(Intermission)
Chopin: Barcarolle in F-sharp major op. 60
Chopin: Prélude in C-sharp minor op. 45
Ravel: Gaspard de la nuit