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東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第330回定期演奏会|齋藤俊夫

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第330回定期演奏会
Tokyo City Philharmonic Orchestra the 330th Subscription Concert

2020年1月18日 東京オペラシティコンサートホール
2020/1/18 Tokyo Opera City Concert Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>        →foreign language
指揮:高関健
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

<曲目>
柴田南雄:『シンフォニア』
矢代秋雄:『交響曲』
シベリウス:交響曲第2番ニ長調作品43

 

〈総譜を見ている指揮者の目と聴いている自分の目が一体化しているように感じる演奏〉がごくまれにある。今回の高関健・東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏会で筆者はまさにそのような体験をした。

柴田南雄『シンフォニア』、12音技法を用いたこの作品を筆者は録音でのみ聴いたことがあり、生演奏は今回が初めての体験である。録音での印象は〈12音技法らしく鋭い音が連なって多方面から切りつけてくる音楽〉といったものであったが、今回の生演奏を聴いて、12音技法を用いながらも、その音楽の目指すものは「バロック時代のイタリア風序曲」すなわち『シンフォニア』であることがわかった。
12音技法の音列が多くの楽器で分割されているのは録音を聴いても一目瞭然であったが、それらの楽器による音色旋律が12音技法による音列と一体となって音楽を成しているのは今回の演奏が初めてであった。楽器ごとの短い断片が全て繋がって旋律化し、決して音楽のアンサンブル(=全体)からはぐれることがない。打楽器の音もまた音色旋律として全体の響きと調和している。後半になると主旋律、対旋律、オブリガート、伴奏、といったオーケストレーションの腑分けの完璧さにより、実に典雅な『シンフォニア』が聴こえてきた。誠実かつ丹念に譜読みをした高関のその読譜力や恐るべし、と10分足らずのこの作品だけで筆者は静かに興奮し始めていた。

現代日本音楽の古典足る(べき)矢代秋雄『交響曲』、これは筆者もいつかどこかで生演奏を聴いたことがある気もするが、しかし耳と頭に馴染んでいるのはやはり録音である。それでも精緻極まりないエクリチュール、総譜を読もうとしても読み解き切ることができないエクリチュールは自ずと知られるものであった。が、今回、高関はその複雑な総譜を完全完璧に読み切って指揮をしたのだ。
第1楽章冒頭の弦楽器の弱音の波動の上にうっすらと管楽器が被さる、その的確な音量のバランスに筆者は耳をそばだてた。矢代の、高関の、シティ・フィルのオーケストラとはかくも神秘的な音であったか、と。作品全体の循環主題の提示から、総譜を見ると物凄く細かく音量の指示が書き込まれているのだが、その全てが――冒頭に書いたように――演奏を聴きながら目に見えるように再現されていく。総譜を読みながら録音を聴いても把握しきれないものが、総譜を目にしていないで聴く生演奏ではっきりとわかったのである。
「テンヤテンヤテンテンヤテンヤ(3+3+5+3)」のリズム・オスティナートによる第2楽章も、荒ぶるのではなく、あくまで音楽の波を描く。あるパートが他のパートを押しつぶすことなく、押し付けがましくなく、しかしそれでも一糸乱れぬままにリズミカルに。
第3楽章、イングリッシュ・ホルンのソロがなんと美しいことか。木管楽器群がソロを受け渡す中、弦楽器の怜悧な音が広がった時、「ラヴェルだったのか!」と筆者は膝を打った。矢代がフランスに留学して猛勉強したのはあまりにも有名であるが、そうか、矢代はラヴェルの音に惚れたに違いない、と、1人納得してしまった。打楽器群が同パターンで何度も登場するのだが、それもまたオーケストラと調和して奇異な所は皆目ない。
そして第4楽章、不定形な弱音と鋭い強音が対比的に現れる導入部から、くっきりとした輪郭で現れる主題(全曲循環主題の変形)が内包するエネルギー!総譜をいくら見ても追いつけない複雑なエクリチュール全てが高関の目を介した高関の音として筆者にも全て見えて、聴こえてくる。なんということだ!こんな作品を全て自分のものとして音にできるのか!筆者は全ての音を聴き逃がすまいと目をカッと開いて舞台を凝視し続けた。あくまで整然としつつ怒涛のクライマックスを迎えて終曲した時、会場中から一斉に拍手が……鳴り止まない。コンサート前半の曲だというのに、拍手は鳴り止まなかった。

休憩を挟んでも会場の興奮冷めやらぬままにシベリウス交響曲第2番。この曲も改めて総譜を広げてみると不思議な曲である。総譜の余白が多い、つまり譜面上は単純なオーケストレーションに〈見える〉のだが、実際に会場で聴くと音が幾重にも重なった多層構造に〈聴こえてくる〉のである。その音楽的秘術を解明することは筆者の手に余るが、高関は譜面に忠実でありながら重層的で大胆な交響曲を聴かせてくれた。
第1楽章冒頭の弦楽器の波が既に重層的かつ大胆。やや濃厚とすら言えるアーティキュレーションで突き進むが、音が堆積せずに幾重もの音の層が見えるのである。金管のファンファーレでグワァッと広がる音楽的視界!だがまた波は引いていく。ため息しきり。
第2楽章、ピチカートの1音足りとも捨てられることがない。緊張感に満ちた第1主題の短調、安らかな第2主題の長調。オーケストラ全体がこちらに魔法をかけてきているかのようだ。かなりの大音量を鳴らしてきても、それが全体の中で音楽的論理整合性を保っているため、やかましく響くことなく、ただただ聴き惚れるしかない。
第3楽章、ここのヴィヴァーツィッシモもやはり整然として一切荒れることがない。それと交互に現れるレントでのオーボエのソロが1人でも美しいのだが、それを囲むオーケストラとのアンサンブルが抜群の出来である。その急と緩の対照も素晴らしい。
そこから盛り上がってアッタッカでの第4楽章第1主題のスケールの大きさ!開放感!この音楽は大空か、大海か。高関は思い切り大胆にオーケストラを揺らしているのだが、それが何故か自然で嫌らしいところが全く無い。やや悲愴な第2主題からの弱音での各楽器の秩序だったアンサンブルを経て、第1主題が堂々と再現される。第2主題でまた思い切り引き、しかし徐々に徐々にクレシェンドし、音の層が厚くなっていき、壮大で雄大なトゥッティから最後のファンファーレが崇高に鳴り響く!

拍手鳴り止まず。いつまでも拍手鳴り止まず。2時開演で、演奏時間は長くなかったはずなのに、拍手が鳴り止んだのは4時10分を過ぎていた。なんという演奏に立ち会ってしまったのだ。だが、だが惜しむらくは聴衆が少なかったことである。このような名演を耳にした人、耳にできると信じて来た人が少ないというのは、惜しいを越え、嘆くべき、悲しむべきことではないだろうか。

(2020/2/15)


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<players>
Conductor: Ken Takaseki
Tokyo City Philharmonic Orchestra

<pieces>
Minao Shibata: Sinfonia
Akio Yashiro: Symphony
Jean Sibelius: Symphony No.2 in D major, Op43