Pick Up (20/2/15)|追悼 ミレッラ・フレーニ|藤堂清
追悼 ミレッラ・フレーニ
In Memory of Mirella Freni
Text by 藤堂清 (Kiyoshi Tohdoh)
Photos by 林喜代種 (Kiyotane Hayashi)
ミレッラ・フレーニが2月8日にイタリア・モデナで亡くなった。84歳。長く闘病生活を送っていたという。
彼女の名前を始めて知ったのがいつだったか明確な記憶はないが、ドニゼッティの《愛の妙薬》の録音だったと思う。高校生だった私にとってレコードは高値の花で、FM放送が音楽を聴く大きな手段であった。とくに枚数の多いオペラのレコードはなかなか買えず、新しい録音が紹介される番組は楽しみであった。そこで流されたアディーナのなめらかで温かみのある歌声にひきつけられた。解説者の「ヨーロッパを中心に活躍し始めている若手ソプラノ」という説明になるほどと。いつか聴きたいとは思うものの、簡単に海外に出かけられる時代でもなかったし、そんなことができる余裕もなかった。しばらくたって手に入れたレコード、イタリア&フランス・オペラ・アリア集といったタイトルのものを繰り返し聴いていた。
そうこうするうちに、音楽の友などの雑誌にも彼女の名前がときおり書かれるようになった。ヘルベルト・フォン・カラヤンに気に入られ、彼の指揮のオペラに出ることもあるといったこともわかってきた。そのころ外国の歌手を聴く機会は多くはなく、NHKの招聘するイタリア歌劇団や日生劇場が3年おきによぶベルリン・ドイツ・オペラが主なものであった。1967年のイタリア歌劇団の演目に《ラ・ボエーム》が入ったが、フレーニの名前はなかった。
結局、1979年のカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーのヴェルディ《レクィエム》の独唱者としての来日が最初となった。普門館という大きなホールでの演奏であったが、最後のリベラ・メにおける彼女の歌は無駄な力みもなく、会場全体にとおる美しいものであった。10年以上も待っていたフレーニにようやく出会えた。
その後たびたび日本を訪れて、その声を聴かせてくれた。
ミラノ・スカラ座の1981年初来日の時の《シモン・ボッカネグラ》と《ラ・ボエーム》の舞台での彼女は、若いころのスーブレットではなく、しっかりと厚みのあるリリコ・ソプラノとなり、常に舞台の中心となっていた。
オペラでは、《マノン・レスコー》(ウィーン)《ラ・ボエーム》(スカラ座、藤原)《アドリアーナ・ルクヴルール》(ボローニャ)などを来日公演で歌っている。
コンサートでも複数回聴くことができたが、歌い出すとすぐにそのオペラの中に連れて行ってくれる。やはり稀有な才能であった。
すこし彼女の経歴を振り返ってみよう。1935年にモデナで生まれた彼女の最後のオペラの舞台は、2005年ワシントン・オペラでのチャイコフスキーの《オルレアンの少女》であった。
1955年に生地モデナの劇場で《カルメン》のミカエラでデビュー。1958年にはトリノで《ラ・ボエーム》のミミを歌う。この役は彼女の代名詞のようになっていく、ミミといえばフレーニ、フレーニといえばミミというように。
国際的な場での活躍は、1960年のグラインドボーン音楽祭での《ドン・ジョヴァンニ》のツェルリーナから始まる。翌1961年にはロンドンのコヴェントガーデンに《ファルスタッフ》のナネッタで、同じ役でスカラ座でも歌う。1963年にはヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮でミミを、スカラ座、続いてウィーンでも歌う。
その後もカラヤンとともに、次第に重い役へのチャレンジが続く。アイーダ、エリザベッタ、デズデモナといった具合に。だが、カラヤンが《ファルスタッフ》をザルツブルク音楽祭で指揮する際、彼女にナネッタをオファーしたことで、長くつづいた関係も途切れる。
1981年にバスのニコライ・ギャウロフと再婚。彼の死まで、リサイタルでの共演、若手歌手の育成をともに行った。ギャウロフからの支援もあり、《エフゲニ・オネーギン》のタチアーナなどロシア語のオペラもレパートリーに加えていった。それは最後の役ジャンヌにつながっている。
2005年には、METデビュー40年と舞台生活50年を祝うガラ・コンサートがMETで行われ、多くの歌手たちから祝福をうけた。
フレーニのキャリアをふりかえると、時間をかけて声を成熟させていき、次第にレパートリーを拡げていったことがわかる。また、大きな声でなくとも、きちんと響く声であれば、オペラの舞台では存在感が大きいことを示していた。これから歌手をめざす方にとって、おおいに参考になるだろう。
《ファルスタッフ》のアリーチェをMETで歌った映像が収録され流通していたことも付け加えておく。
(2020/2/15)