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評論(連載4)|強制収容所の音楽—アウシュヴィッツのオーケストラ—|藤井稲

強制収容所の音楽—アウシュヴィッツのオーケストラ—
Musik im KZ: Die Häftlingsorchester im nationalsozialistischen Konzentrations- und Vernichtungslager Auschwitz-Birkenau

Text & Photos by 藤井稲(Ina Fujii)

3. ポーランド国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館所蔵の楽譜

ベルリンで最も美しい広場と言われているジャンダルメンマルクトに石造りの立派なコンサートホールが建っている。私はベルリンに留学中、ここの室内楽ホールで、シモン・ラックスSzymon Laksの作品が演奏されるというので聴きに行ったことがあった。ラックスはアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の男性オーケストラの指揮者であったことで生き延びることができた作曲家であった。この日に演奏されたのは1945年に作曲された弦楽四重奏曲第3番。演奏者はポーランドのシマノフスキー弦楽四重奏団であった。ラックスがアウシュヴィッツ解放直後に取りかかった作品ということで、悲壮感や絶望、怒り、苦しみが全面に表現された作品であるだろうと想像しながら演奏会へむかった。ところが、いざ演奏が始まると、その予想は大いに裏切られた。躍動感のあるポーランド民謡をふんだんに使い、力強いリズムと、生命力にあふれた音楽が展開されていったのだ。まるで、“戦争に屈しない”、“どのような暴力でもってしてもポーランドの精神(音楽)までは傷つけることはできない”、という叫びが聞えてくるようだった。それに輪をかけて演奏者のすばらしいパフォーマンスで、ラックスの音楽は聴衆の心をわしづかみにしていった。このような体験は私が室内楽を聴いて初めてのことで、演奏会後の会場の熱気と共に、しばらくの間興奮に包まれたのを今も鮮明に覚えている。
この演奏会を機に、私はシモン・ラックスという人物に強く興味を持つこととなった。この第3番とほぼ同時期に書かれた彼のアウシュヴィッツについての手記はというと、ナチスを批判する訳でもなく、残酷さを伝えようとするものでもなく、収容所で体験した事実を淡々と綴っている。その文面からは、親衛隊でさえ時代に翻弄された一人の人間であったことが伝わってくる。それは、悲惨な状況下でも音楽を通して親衛隊と関わったラックスだからこそ見た、もうひとつのナチスの姿だったのかもしれない。

彼について調べる中で、ポーランド国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のコレクション部門とコンタクトを取った。そこで私が知ったのは、未だ学術的に手をつけられていないアウシュヴィッツの囚人オーケストラが使用したとされる大量の楽譜がアーカイブに保管されていることだった。一体その楽譜はどんなものなのか。誰のどのような作品だったのか。私はその強い興味から、実際に博物館を訪れ楽譜を閲覧させてもらうことになった。

<アウシュヴィッツ囚人オーケストラの楽譜>

アウシュヴィッツ基幹収容所入り口

ポーランド国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のコレクション部門は、「Arbeit macht frei(働けば自由になる)」と掲げられた門があるアウシュヴィッツ基幹収容所(アウシュヴィッツⅠ)施設内のレンガ造りの建物の一部にあった。ドイツ人でもポーランド人でもなく、親族の誰かがこの歴史に関わったわけでもない日本人である私が、はたしてきちんと対応してもらえるのだろうか、という不安があったが、メールでコンタクトを取っていた博物館の担当者は、フレンドリーに対応してくれた。「日本のペンはいいね」と日本製のボールペンを見せて書類に記入しながら、私の緊張をほぐしてくれた。

基幹収容所の中にアーカイブがある

そして会議室のような部屋に案内され、そこに何箱かケースを持ってきてくれ、「中に入った楽譜の中から閲覧したいものを教えてください」と言われた。まずは縮小写真の一枚一枚を見ることからはじまった。途方もない数の楽譜、そして、どの楽譜も鮮明に読み取ることができるほど状態が良いことに驚いた。何枚か楽譜を選び、用紙に番号を書いたあと、担当者が堅紙に包装された楽譜を持ってきてくれた。閲覧時は必ず手袋をするようにと指示があり、白い手袋をしてから資料を閲覧させてもらった。その際中、「どうぞ」と言って優しそうなポーランド人女性がお茶とケーキを持ってきてくれた。閲覧中の私は楽譜を前に少々戸惑ったが、家族的なおもてなしに、重い空気をそっとなごませてもらえた。

博物館には囚人オーケストラが使用したとされる楽譜が218曲保存されていた。アウシュヴィッツ収容所解放前に収容所にあった大多数の資料がナチスによって処分されたことを考えれば、当時一体どれだけの楽譜がアウシュヴィッツにあったかは計り知ることができない。このことからも、それ自体が重要性を語るものであり、楽団というものがアウシュヴィッツにおいて決して無視できないものであると言える。
博物館の楽譜はアウシュヴィッツの囚人オーケストラで演奏されたものであると特定できるものの、アウシュヴィッツには本稿前回既述の女性、男性オーケストラだけでなく幾つも楽団がつくられていたので、各楽譜がどの楽団で使われていたのかを検証することは大変困難である。しかし、女性オーケストラの指揮者アルマ・ロゼは女性オーケストラでおよそ200曲以上もの曲を編曲していたと言われていることから、ロゼの時期に女性楽団が演奏したであろう曲数は博物館に現在保存されている数にほぼ相当し、今ある218曲を調べることによってアウシュヴィッツで鳴り響いた楽団の音楽の傾向をある程度明らかにすることができるのではないかと考えた。

<楽譜の種類>

《アフリカ組曲第1番》ピアノ・リダクション

先ず、私が直接調査したこれらの楽譜はどのようなものであるか具体的にみていきたい。所蔵されている多くの楽譜は印刷されたドイツやオーストリアで当時売られていた市販のA4縦型の楽譜である。また、おそらく囚人によって手書きで書き写されたであろう管弦楽器のパート譜(A4横型)も少なくない。保管されている楽譜は戦後博物館に入ってきた時期によって分けられ、それぞれに資料番号が付けられている。これらの楽譜が囚人オーケストラによって使用されていたというたった一つの証拠は、楽譜上部にあるHÄFTL.-KAPELLE K.L.AUSCHWITZ(アウシュヴィッツ囚人楽団)と刻まれている捺印であり、その捺印は曲によっては1ページ目だけでなくすべてのページに押されているものもあった。このことから、楽団が演奏する曲の中身までも検閲が入っていたことが分かる。

《Jalousie》 第一ヴァイオリン(写譜者は不明)

また、楽団の楽譜であるにもかかわらずオーケストラ・スコアはほとんど見当たらず、その代わりにピアノ・リダクションの楽譜が必ずといってよいほど含まれていた。これは、この楽譜をもとに編曲作業が行われていたことが分かる。手書きの楽譜は、恐らく各楽器の団員が使うためにパート譜をそのまま書き写したもの、または編曲したものではないかと思われる。手書きの楽譜には、音の強弱、アクセントやスタッカート、レガートなどきめ細かく写されているものもある。曲によってパート譜の数は異なり、それがより一層どこの楽団が使用していたかを割り出すことを難しくしている。

<楽譜のジャンル>
曲目リストには218曲の曲名と、ほとんどの曲に作曲者名、場合によっては編曲者名が記載されている。全体の95パーセント(207曲)は作曲者が判明し、そこから159曲の作曲者の出身国を特定することができた。リストに載っている作曲者は全部で140名、出身国はドイツ、オーストリア、イタリア、イギリス、フランス、デンマーク、ポーランド、ノルウェー、チェコ、ロシア、ハンガリーと幅広い。218曲中119曲はナチ時代に活躍した作曲家の作品であり、出身国が割り出せた作曲家の大多数(159曲中124曲)はドイツとオーストリアの作曲家である。150曲(全体の70%)でジャンル分けすることができた。その結果、クラシックが33曲、ポピュラー音楽が93曲、恐らくポピュラー音楽であろう曲が68曲、不明が24曲となり、過半数がいわゆるポピュラー音楽であったことが分かる。
曲目一覧表に載っている33曲のクラシック音楽を見てみると、3曲がリヒャルト・シュトラウス、パウル・グレーナーなど同時代に作曲された曲であり、そのほか半数以上(18曲)がグリーグ、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフ、ワーグナー、ヨハン・シュトラウスというロマン派の作曲家で、他12曲はヴィヴァルディ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの作品である。この中で特に目立つのが、一覧表に6回も重複して記載されているノルウェーの作曲家グリーグの組曲《ペール・ギュント》第1と第2組曲である。このような「組曲」と呼ばれる作品がクラシックの33曲のうち7曲入っている。

パウル・リンケ
《Die Meistersinger von Berlin》
のピアノ・リダクション

次にジャンル分けできる150曲を見てみると、オペレッタ、オペラ、メドレー、交響曲、管弦楽曲、組曲、序曲、ヴァイオリンソナタ、歌曲、サロン音楽(ピアノのための小品)、行進曲、ワルツ、カプリッチオ、セレナード、ラプソディー、インテルメッツォ、バラード、バレエ組曲、ポルカ、映画音楽、フォックストロット、歌謡曲、タンゴがあげられる。リズムはほとんどが2/4、4/4、3/4、6/8拍子のいずれかであり、クラシックを除き演奏時間が5分以内の曲ばかりである。
博物館が所蔵している一覧表全体から見えてくるのは、オーケストラのレパートリーの殆どがポピュラー音楽であり、様々な流行歌やメロディーが次々と続いていくメドレー形式のものが愛好されていることである。収容所の楽団の演奏曲といえば行進曲が真っ先にイメージされるが、当時流行していたオペレッタの中から抜粋した甘い旋律の歌からなるメドレーを筆頭に、歌謡曲、オペラ、ワルツから抜粋されたそれぞれのメドレー曲も少なくない。中でも突出してよく演奏されたであろう作曲家がオーストリアのオペレッタ作曲家フランツ・レハールFranz Lehár(1870-1948)で、一覧に13曲入っており、同じく当時流行していた作曲家パウル・リンケ(1866-1946)、フランツ・フォン・ズッペ(1819-1895)、ヨハン・シュトラウス2世(1825‐1899)の作品がそれに続く。

また見過ごしてならないのが、この一覧の中にはポーランドやロシア、ハンガリーなど、東欧諸国の作曲家の作品をはじめ、《ジプシー組曲》《アフリカ組曲》を作曲したイギリス人で父親がアフリカ出身であるサムエル・テイラー・コールリッジSamel Taylor Colridgeの曲もある。他にもユダヤ系ハンガリー人のシェイベル・マーチャーシュMátyás György Seiberの曲や、ナチ時代に禁止されていたユダヤ人の歌から生まれたフォックストロット《Sie will nicht Blumen und nicht Schokolade》も一覧表に入っている(ただし捺印はなし)。このように、収容所の管理下では一貫して厳密な検閲を行っていたわけではないことも見てとれる。

<楽譜からみえてくるもの>
一覧表の曲の多くの典型的なタイトルは《人形のパレード》《小さな皮肉》《バイエルン・ポルカ》《オルゴール時計》というように民謡や歌謡曲の作品が多い。それはどういうことなのかは、当時普及していた音楽媒体を見てみるとひとつの背景がみえてくる。1920年代、ドイツではラジオが普及しはじめ、ナチ時代にはラジオはレコードや映画と並んで重要なプロパガンダの道具であった。当時のラジオのプログラムの約70%は音楽番組であり、その3分の2はポピュラー音楽が流れていた。当時の政治家ヨゼフ・ゲッベルスは戦時中のラジオが人々に与える影響を重要視しており、彼の演説では、ラジオから流れる音楽は人々を考え込ませるような音楽ではなく、作業をしながら片手間に聞ける簡単な音楽であるべきだと主張している。一見政治とは何の関わりもないかのような分かりやすい調性、不協和音のないメロディーの覚えやすい音楽。そういった音楽がラジオをつければひっきりなしに流れていた。そのことを反映するように、アウシュヴィッツの楽団の曲目一覧表の218曲の中でナチを称える曲やイデオロギーを全面にだしている歌は1曲のみで、大半は収容所とは相容れないポピュラー音楽や優雅なクラシックの作品であった。
このように、アウシュヴィッツでは囚人オーケストラによってナチスのプロパガンダ曲や行進曲が好まれて演奏されていたのではなく、収容所という世界とは無縁であるかのような、日常的に流れている音楽が演奏されていたのだ。

また博物館に保存されている当時使われていた楽譜の全体像を追うと、もうひとつの興味深い事実に直面する。というのは、これらの楽譜が博物館に渡った時期をたどると、数曲ずつ徐々に入ってきたのではなく、1963年から1973年、2005年から2006年という二つの時期にはっきりと分けられるのだ。まず解放から約18年後の1963年に数曲が博物館に寄贈され、1965年に1曲、その2年後にベートーヴェンの交響曲第5番が入ってくる。この10年間におよそ17曲(現在の曲数の約10パーセント)が博物館に来ていたことになり、そのほとんどがクラシック音楽であった。それから30年という長い空白期間の後、2005年と2006年に新たに200曲もの楽譜が博物館に寄贈される。それは現在所蔵する楽譜全体の90パーセントを占める数で、特筆すべきは、その大多数の楽譜が当時ラジオや映画などで広まった大衆音楽なのである。

(つづく)
(2020/2/15)

参考文献

  • Szymon Laks, Musik in Auschwitz. Aus dem Polnischen von Mirka und Karlheinz Machel. Hrsg. und mit einem Nachwort versehen von Andreas Knapp, Düsseldorf 1998. Polnische Orginalausgabe: Szymon Laks, Gry oswiecimski. London 1978.
  • Michael Walter, Jazz und leichte Musik als nationalsozialistische Propaganda- 81 instrumente, in: Das Dritte Reich und die Musik, Berlin 2006.
  • Ernst Klee, Kulturlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945. Frankfurt am Main 2009(2007).
  • Fred K. Prieberg, Handbuch Deutsche Musiker 1933-1945. 2009.

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藤井稲(Ina Fujii)
大阪音楽大学ピアノ専攻卒業。渡独後ハンス・アイスラー音楽大学ベルリンのピアノ科に入学。フンボルト大学ベルリンに編入し、音楽学と歴史学を学ぶ。同大学マギスター(修士)課程修了。強制収容所の音楽を研究テーマとし、マギスター論文ではアウシュヴィッツの楽団について調査し研究に取り組んだ。現在、府立支援学校音楽科教諭。