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Books|ブルックナー研究|佐野旭司

ブルックナー研究

レオポルト・ノヴァーク著、樋口隆一訳
音楽之友社
2018年4月 ISBN978-4-276-22606-7

Text by 佐野旭司 (Akitsugu Sano)

ブルックナーの楽譜校訂者として知られるウィーンの音楽学者レオポルト・ノヴァーク(1904~91)。彼はローベルト・ハースのもとで『ブルックナー全集』の助手を務め、第2次世界大戦後にはその後任としてオーストリア国立図書館の音楽部門長に就任する。そしてそれに伴い全集の編集主幹となり、最晩年まで約40年間その作業に従事した。
その一方で彼はブルックナーに関する多くの論文を残している。そして1985年、ウィーンの「音楽学出版社Musikwissenschaftlicher Verlag」はノヴァークの80歳の誕生日を記念して、彼が1936~84年に執筆した論文を集めた『ブルックナーについて Über Anton Bruckner』を出版した。ここで取り上げる『ブルックナー研究』(音楽之友社 2018年4月)は、日本を代表する音楽学者の一人樋口隆一氏が、この論集を抄訳したものである。
本書はノヴァークによる17の著述からなり、それらが「I. ブルックナー 人間と音楽」、「II. ブルックナー 教会音楽と交響曲のはざまに」、「III. ブルックナー 作品の形式」、「IV. 『ブルックナー全集』の方法論」の4つに分類されている。そしてそれぞれにおいて、ブルックナーの人間像や作品の様式などについて踏み込んで論じており、著者の深い洞察力がうかがえよう。

ではノヴァークによる論文集を今日翻訳して出版する意味はどこにあるだろうか。ノヴァークの娘クリスティーネ・ガイアーは「わが父レオポルト・ノヴァーク」と題した前書きの中で、「すべての音楽愛好家が、この本から多くの喜びを得られ[中略]彼の音楽への理解が深まることを願いたい」と記している。しかしこの著書は、当然ながら愛好家だけに向けられたものではないだろう。
周知のようにノヴァークは、ブルックナーの楽譜校訂の第一人者である。その意味でこの著書はまず研究者にとってブルックナーの受容史、とりわけ研究史の大きな一側面を知るうえで有意義といえる。
そしてさらに重要なのは演奏家に対してであろう。今日でもブルックナーの作品を演奏する際には、ノヴァーク版を用いる機会が多い。現在も広く使用されている楽譜の背後にある、校訂者のブルックナー観を知ることは、演奏をするうえでも必要ではないだろうか。本書ではそれが十分に反映されており、貴重な文献といえよう。
例えば「6. ブルックナーの作品における「イエス・キリスト」の御名」では《アヴェ・マリア》やミサ曲などにおける「イエス・キリスト」という言葉の扱い方に着目し、その部分の声部書法やオーケストレーションなどを詳細に分析している。そしてそこからは、作曲家がイエスの御名をいかに強調しているかが浮き彫りとなる。これは演奏の際にどのような曲作りをするかを考えるうえで、示唆に富んでいるだろう。また第9章や第10章ではそれぞれ交響曲第7番と第5番の終楽章に注目しているが、その形式構造の分析からは、ブルックナーがいかに精緻に作曲しているかが見て取れる。
そしてその他にも作曲家の人物像や作品の様式について様々な側面から論じられており、校訂報告だけでは知ることのできないノヴァークの思考が、ここには凝縮されているのである。これらの論考は、楽譜を通して作曲家や作品といかに向き合うか、という問題を考えるきっかけにもなり得る。当然ながらそれは演奏家だけでなく、音楽を受容するあらゆる人にとって重要な問題であろう。

(2020/2/15)