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特別寄稿|Ambition is the last refuge of the failure〜パウル・ザッハー財団訪問記(2)|浅井佑太

Ambition is the last refuge of the failure〜パウル・ザッハー財団訪問記(2)

Text & Photos by 浅井佑太(Yuta Asai)

とあるバーにて

「それで結局、作曲家の自筆譜を見て何か意味があるの?」
バーゼルのステイ先の主人から鍵を受け取り、しばらく雑談したのちに聞かれたものの、実は僕自身あまりよく分かってはいなかった。
もちろん作曲プロセスだとか、作品の改訂痕跡だとか、創作の背後にある思考法だとか――、そういった教科書的なことをつらつら述べることはできたが、実際の調査は考古学における遺跡の発掘調査とよく似ている。多少の見通しのようなものはあったとしても、アーカイブ内で資料に目を通してみるまでは具体的に何があるか分からないし、出てくるものの大半は端的に言えば「使えない」ものばかりだ。一例を挙げれば、数十ページに及ぶ壮麗なカリグラフィー書体で書かれた自筆楽譜であろうと、出版譜と相違なければオークション向けの骨董品としての価値しかない。あるいはスケッチ資料にしてもほとんどはただ乱雑に書き留められた楽想の断片の域を出ない。
――2ヶ月。
それがとりあえず僕に与えられた時間的猶予で、とにかくその間に何か形になりそうなものを見つけ出して、持ち帰らなければならなかった。
何も見つからなかったら?
別にだからといって肉親が不治の病に倒れるわけでも、温暖化の影響で世界の大都市が軒並み水没してしまうわけでもないにせよ、僕は2ヶ月間バーゼルで無駄に高いお金を払って毎日トマト・バーガーを食べていただけということになる。アパートの一室、の中のさらに一部屋を間借りしただけなのに1ヶ月の家賃が10万円以上したから、南極大陸が氷解するよりも僕が破産へと向かうスピードの方が遥かに速いことだけは確実だった。

* * *

8時50分。
大体そのくらいの時間に、ザッハー財団の大きな木製の門の前で開館時間を待つ。9時ちょうどになると同じ広場に位置するバーゼル大聖堂の鐘がゴーンと鳴るから、インターホンのブザーをビーッと鳴らして、体をもたれ掛かるようにして重たい扉を開ける。そのままレセプションに向かって、秘書の人に名前を伝えると、
「えっと、浅井さん……、ですよね?」
と、パソコンのキーボードをカタカタ動かして、「前に送ってくれたメールだと、明日から来館することになっていますけど」
「あれ、そうでしたっけ?」
あまりスケジュールにこだわらない質なのだ。
「まぁいいでしょう。来館は初めてですよね。下の階に行ってすぐ右の部屋に行ってみてください。司書のヘンギさんには電話で伝えておきますから」

パウル・ザッハー財団 Photo from Wikimedia Commons

そう言われて、階段を降りると、大学の中講義室くらいの真っ白い空間が広がっていて、中央にはシンプルなデザインの丸型テーブル、隅の方には木製のグランドピアノが一台置かれている。それからよく分からない現代アート風の青い羊のオブジェとか、ジャン・デュビュッフェとかいう発音し辛い名前の人が書いた大きくてウネウネした壁画とか、前衛的になりすぎないくらいのイカした感じのマヤ・ザッハーの肖像画とか、等々々――、とにかく芸術にうとい自分でも高価そうと分かる品々が、小綺麗な感じでちょこちょこ配置されている。
世界中の作曲家の自筆譜を大量に保管しているとはいえ、来館者が利用できるスペースはそれほど広くはない。一般の研究者に公開されてはいるものの、来訪者の数は基本的には一日に10人にも満たないことが大半だし、ほとんどの自筆譜は地下の書庫に厳重に保管されていて自由に手に取ることはできない。だから来館者にはアパートの一室くらいの共同作業部屋が与えられていて、そこで資料を閲覧することになる。カタログの請求番号を記入した用紙を日に2回の所定の時間までにボックスに入れると、それをもとに司書の人が書庫からファイルに入った資料を作業部屋まで持ってきてくれる手はずになっているのだ。もっとも普通閲覧できるのは自筆資料のフォトコピーであって、本当のオリジナルは特別に申請しないと見せてはもらえない。
――といったようなことを司書のヘンギ氏が説明してくれたので、僕は早速ウェーベルンのカタログから適当にいくつかの資料を選び出し、請求番号を書いた用紙を渡した。
「あの、浅井さん」
と、カールしたきらびやかな銀髪に手櫛を通しながら、少し顔をしかめた。「これは少し多すぎるけど本当にこんなに沢山必要なんですか? できれば今見るものだけを請求するようにしてもらいたいんですけれども」
ヘンギ氏はいかにも貴婦人風といった感じの女性で、質素ながら細部に意匠を施した服をいつも着ていて、近づくとほのかに香水の匂いがした。司書の方の業務は来館者の応対以外にも膨大にあるので、それほど多く話したわけではないが、彼女とは飼っていた猫の話を時々したことを覚えている。プライベートな話をしたことはほとんどなかったが、猫の話題になると妙に饒舌になって時おり笑顔を見せた。当時から3年以上経った現在では定年退職して、郊外の自宅で3匹の飼い猫たちと暮らしているのだという。多分もう会う機会はないのだろう……

大きくてウネウネした壁画

新たに請求し直した資料をヘンギ氏が取りに行っている間に、僕は筆記用具を机に並べて、ぼんやりとこれからどうやって調査しようか考えていた。出版された作品の自筆譜はもちろん、スケッチ関係の資料だけでも累計1000ページ以上はあった。2ヶ月という期間で全てに目を通すことは不可能だし、コピーを取ることも写真を撮ることも固く禁じられていた。だから必要な資料は全て、手書きで(!)ひとつひとつの音符を書き写さなければならない。それがパウル・ザッハー財団の古風で厳格なハウス・ルールで、どれほど高名な学者や演奏家がやって来ても手心が加えられることは一切なかった。

そういうわけで、何があるかは分からないものの、とにかくがむしゃらに資料を漁ってみよう、と思っていた。世紀の大発見、とまでいかなくとも、何かちょっとでも前に進める切掛になるようなものがあればいい。中途半端な形で修士課程を終えたのが確か2015年、それからほとんど放校処分のような形でドイツに渡ったものの、その日その日をなんとか生きるのが精一杯。よく調べもせずにバーゼルに来たのは、今思えばとにかく何か変化が欲しかっただけなのかもしれない。いくらじっと考えていても何も分からないだけに、手足をやみくもに動かしてみるしかなかったのだ。

ヘンギ氏がファイルを抱えて作業部屋に戻ってきて、僕は適当に選んだそのうちの1冊から何枚かのコピーを取り出した。1917年頃に書かれたと思われる歌曲のスケッチ。特に理由はなかったが、何となくここら辺の時代のスケッチをまずは見てみようと思っていた。
それはウェーベルンの創作において恐らく最も困難な時期のひとつで、際立って多くのスケッチや未完成作品が書き散らされた頃でもある。師のシェーンベルクが十二音技法を考案する1921年よりも前、多くの作曲家たちがドミソの和音を中心とする調性によらない新たな音楽語法を必死に模索していた時代である。きっとウェーベルンは頭に浮かんだ楽想をとにかく五線紙に書きとめ、試行錯誤を繰り返していたに違いない。
「うわ、汚いなぁ……」
と僕はその1枚のスケッチ見て、思わず声を上げそうになった。
両手にすっぽり収まるくらいの小さなサイズに切り取られた五線紙には、所せましと鉛筆で乱雑に書かれた音符がぎゅうぎゅう詰めになっていて、そこに書き込まれた修正案や削除の跡が紙面をさらに圧迫する。おまけに乱雑に書かれたシャープとかナチュラルとかの臨時記号はどれもよく似ていて、虫眼鏡を使ってみてもどっちがどっちだか判別できないくらいだった。
とてもじゃないがスケッチの内容を読んでいる余裕なんてなかった。持ってきたノートを開いて、時おり虫眼鏡を使いながら、慎重にスケッチに書かれた音符を写していく。それで10小節くらい丁寧に書き写してみて、ようやく何が書かれているのか朧げに分かる程度。そして似たようなスケッチが1917年の分に限ってみても、多分100枚以上はゆうにあるのである。
ハイハイ、そういうことね、と僕は半ば諦めながら思った。事前の準備をもとに「使えそう」な資料を選別して必要なものだけを書き写す――、なんてエレガントなやり方は僕には土台無理な話だった。考えて分かることなんてほとんどなかった。要するに馬鹿にみたいに目の前にあるものを書き写していくしかない。指針も目標もない、あるのは気合と根性だけだった。

(第3回に続く)

(2020/1/15)

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浅井佑太(Yuta Asai)
1988年、大阪生まれ。2011年、京都大学経済学部経済学科卒業、2017年、京都大学文学研究科博士課程、単位取得満期退学。専攻は音楽学。