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TDKオーケストラコンサート2019 ケルン放送交響楽団|藤原聡

TDKオーケストラコンサート2019 ケルン放送交響楽団
TDK Orchestra Concert 2019 WDR Sinfonieorchester Köln

2019年11月26日サントリーホール
2019/11/26 Suntory Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:マレク・ヤノフスキ
ピアノ:チョ・ソンジン(*)
管弦楽:ケルン放送交響楽団

<曲目>
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73『皇帝』(*)
(ソリストのアンコール)
ブラームス:6つの小品 間奏曲 作品118-2 イ長調(*)
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』
(オーケストラのアンコール)
ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93~第2楽章

 

恐らく、未だにこの名称の方が一般に馴染みがあるとの理由だろうか、現在の名称であるケルンWDR交響楽団ではなくケルン放送交響楽団という旧称が冠されての来日。あくまで筆者だけの話なのかは分からぬが、このオケはやはりガリー・ベルティーニとの組み合わせで大きく印象付けられていて(来日公演を1度だけ聴くことができたが、録音ではやはりマーラーだろう)、あるいはビシュコフとのいくつかの実演と録音も体験したが、それらの印象で言えば、重厚さよりも軽快な機動性を感じさせる点で同じ放送交響楽団でもバイエルンや北ドイツとは持ち味が異なり、フランクフルトとの相同性を感じていたものだ。そのケルンがこの度ヤノフスキに率いられての来日。この指揮者は1983年より同オケを指揮していたとのことだが、新即物主義的あるいは徹底したモダニストぶりを発揮するヤノフスキとケルンの相性は良いだろう、とは容易に察しが付く。曲がベートーヴェンであれば尚のことそれを確かめる絶好の機会であろう。

1曲目はチョ・ソンジンが登場しての『皇帝』。指揮者及びオケとは言うまでもなく演奏傾向が異なるピアニストだが――むしろ抒情的なものに沈滞するような演奏をする――、ここでチョ・ソンジンは曲の傾向に合わせてか徹底して「外面的な」演奏を繰り広げる。これが第4協奏曲であればまた話は違うが、『皇帝』はそのようなヴィルトゥオジティや絢爛たる演奏効果がその本質でもあるので、これは1つの行き方だと納得する。あるいは指揮者に寄り添ってのこうした演奏だったのかも知れない。冒頭ピアノのソロが終わった後のオケでの第1主題からしていかにもヤノフスキ、キビキビした速めのテンポでリズムは鋭角的、フレージングも実に正確。『皇帝』のオケパートを少し聴いただけでそう思わせるのだからまさに筋金入りだが、チョ・ソンジンの「外面性」は多分にファジーで演奏者自身の個性が感じられるが、ヤノフスキの演奏は「個性」などというものではない。テクストの求めるところを突き詰めて表現するとこうなるのだ、という姿勢である。ともあれ、下手をすると水と油ではないかというこの両者、意外にもまとまって良い『皇帝』であった。チョ・ソンジンのアンコールはブラームスの間奏曲 作品118-2。最近この曲をアンコールで聴く機会が多いが(アンゲリッシュや他にも誰だかで聴いた記憶が…)、「美メロ」といかにもブラームス的な対位法が組み合わさったこの曲は弾き甲斐があるのだろうか。ここでの演奏、本当に美しいがより堅固な音構成があればさらに素晴らしかった気も。

休憩後は16型の弦に木管倍管の『英雄』(モダニスト・ヤノフスキがなぜこういう編成で臨むのかは当日のプログラムに掲載された舩木篤也氏の文章が示唆を与えてくれる)。冒頭2発のアコードは意外にもそこまでシャープではなく縦線を微妙にずらしての量感を感じさせるものであったが、その後の「進軍」はすさまじい。特に弦楽器群のフレージングを正確に鍛え上げ、弦5部を寄木細工のように綿密に組み合わせて緊密な合奏を実現する。それゆえ16型でありながらスケール雄大というよりは小ぶりで凝縮された音響が特徴的。倍管にした木管は時には弦の背後に回り、またある時には大きく前面に出て普段聴き取りにくい音型が白日の元に晒されたりもするが、それは構造面を浮き彫りにする工夫だと後で気が付いたりもする。第2楽章はこれも意外にある程度落ち着いたテンポ設定ではあるが、しかし悲嘆の感情を聴かせるというよりも「意匠」としての葬送行進曲とでも言った雰囲気を感じさせる。これもまた音に余分な情動をこめないがゆえにベートーヴェンの近代性が露になったといいうる。タイトなスケルツォを経て、終楽章もまたヤノフスキ節全開。ユーモラスであってもよい変奏が異様な気迫で畳み掛けるように演奏されていくさまは猛烈。筆者はなぜかここでまるで異なるはずのカラヤンの演奏を思い出したのだが、あれも異様に壮大で真剣な演奏であり、カラヤンもまた別の意味でモダニストであった訳だから畢竟ユーモアとは無縁の演奏になるのだろうな、と(対極はアーノンクール)。この『英雄』、聴き終わって十分にヤノフスキの持ち味を堪能したのだが、しかし、実はN響を振った際によりこの指揮者の演奏の「骨格」「キモ」が前景化するのでは、と思ったのも事実。ケルンのオケを「軽快な機動性」と先に書いたことと矛盾するかも知れないが、やはりドイツのオケらしい重厚な質感は明確で、これによってヤノフスキの表現が中和されている。N響は技術的にはあるいはケルンよりも上とも思え、かつわが国のオケの特徴でもある従順さのために指揮者の意図がそのままトレースされている気がするのだ。これはN響の演奏だけ聴いていても、またはケルンとの演奏だけを聴いても思わなかったことであり、今さらながら指揮者とオーケストラの関係性は微妙で多彩だと感じた次第。アンコールは交響曲第8番の第2楽章。辛口で真面目、ユーモアはない。それにしてもヤノフスキの表現は首尾一貫していてウソがない。天晴れ。

(2019/12/15)