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名古屋フィルハーモニー交響楽団 東京特別公演|西村紗知

名古屋フィルハーモニー交響楽団 東京特別公演
Nagoya Philharmonic Orchestra Special Concert in Tokyo

2019年11月19日 東京オペラシティ コンサートホール
2019/11/19 Tokyo Opera City Concert Hall
Reviewed by 西村紗知 (Sachi Nishimura)
Photos by 中川幸作(Kosaku Nakagawa)/写真提供:名古屋フィルハーモニー交響楽団

<演奏>        →foreign language
小泉和裕 (指揮/名フィル音楽監督)
オーガスティン・ハーデリッヒ(ヴァイオリン)

<曲目>
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64
*ソリスト・アンコール
フランシスコ・タレガ:アルハンブラの思い出[ルッジェーロ・リッチ編曲によるヴァイオリン独奏版]
ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14

 

数年前に聞いた小泉和裕のブラームスの2番が強く印象に残っている。均整のとれたアンサンブルを出現させるあのタクトを。この演奏会のフライヤーを見て、ふと思った。メンデルゾーンの例のヴァイオリン協奏曲とベルリオーズの「幻想」という、ブラームスとは諸々勝手が違うであろうこのプログラムを、あの指揮者ならどうまとめ上げるのだろう。
それに、あまりに通俗的に過ぎるプログラムではあるまいか、とも同時に思ったのだ。もちろん、通俗的というのもある面では現代の受容の話であって、作品の品位は受容の都合で貶められるべきではなかろう。忘れてはならないのは、これら2作品がベートーヴェン歿後の管弦楽作品としてどのように位置付けられるべきかという問題だ。高潔な精神性、あるいは野蛮な音づかいに対するカウンターとしての通俗性、などと考えてみる。また反対に、どういうタイプのものがベートーヴェンの作品の真の後継といえるのかも多く議論をよぶだろう。緻密な主題労作か、スペクタクルな世界観か、はたまたもっと精神的な問題か。もちろんその頃の作曲家が今現在のようなベートーヴェン史観にどれほど縛られていたのかはわからない。しかし少なくとも、変奏の緻密さに圧倒されるブラームスの作品と、今回の2作品とはやはり別の地平にあると思わざるをえない。第一これら2作品は圧倒的なまでにメロディーの威力をものにしており、加えて、人間の情動、あるいは詩的な世界観を、それぞれの仕方でより明白に導入するに至ったのだ。それが現代の通俗性に通じてしまっただけのこと。

さて、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を改めて聞くと、ただただ全体の形式上の完璧さに戸惑うばかりである。この驚きは、ブラームスの緻密な主題労作に対するそれとはまた違う。通俗的で聞きやすい、つまり人が喜びそうなものがたくさん盛り込まれているのではなく、反対だ。なんとも、とっかかりが見当たらない。とっかかりが無いのを人は音楽的と言うのであったか。それはそうと、本日のソリスト、オーガスティン・ハーデリッヒの音は、おだやかな光沢を放つ青藍の絹糸のようだった。控えめにヴィブラートをかけた長音は澄んだ輝きをまとって、オーケストラの響きを縫い閉じていく。ただこの絹糸はすべりがよく、三連符の速いパッセージに入った途端、先へ先へと走って針穴から抜け落ちてしまいそうなほどだったが、この縫い物がうまくいかなくなることは一度もなかった。いつの間にか糸目がつながっている。第3楽章の愉快な超絶技巧ですら、縫い目は均質。ソリストとストリングスの受け渡しなどは特にストレスがなく、聴衆はただただ音楽に没頭するだけだ。

ひたすらメロディーに聞き入るのは続く『幻想交響曲』でも同じことだが、今度はユニゾンのメロディー。特にストリングスにはニュアンシーなざらつきがある。
第2楽章「舞踏会」のシーンが終わるまでは、このストリングスに押し切られるようだった。しかしこの作品の本番はこれから。舞踏会以降徐々に雲行きが怪しくなっていく感覚がたまらない。
第3楽章「野辺の風景」でのイングリッシュホルンとオーボエの掛け合いは実に心細い。この辺りオーケストラ全体の音の受け渡しの不安定なこと。しかしこの不安定さは作品の意図に即しているのであって、技術的な未熟さではない。それに、やはりイングリッシュホルンは実際にホールで聞くに限る。不気味さが全然違うのだ。4人がかりでティンパニを叩いて、その上にイングリッシュホルンのソロが乗る場面など、その斬新さは今でも十分体験できる。
第4楽章「断頭台への行進」以降、急激に威勢のいい場面が増えるので笑ってしまいそうになる。極め付きは終楽章の「魔女の夜宴の夢」だ。オーケストラ全体が粗野な音色にシフトしているのはわかるが、それにしても妙に生真面目なロンドとフーガ。つまり、ちゃんと終楽章らしいことをやろうということ。この形式上の意識と、楽音らしさをほんの少しでもなくすことでストーリーの放埓な内容へと近づこうとする音色上の意識とが、ちぐはぐでおかしい。これがブラームスの2番の終楽章だったら、ちぐはぐなんて印象にはならなかったのだ。均整のとれたアンサンブルを出現させる小泉のタクトがベルリオーズの作品に出会ったからこそ、この悲劇なのか喜劇なのかよくわからないストーリーは音楽上の実体を得た。このことに今日の演奏の感動がある。そうこうするうちにクライマックスに到達。

優れた技術はときに弁別を拒むのだろうか、結局ほとんど「幻想」の最後以外に指揮者のことを意識することはなかった。しかしながらそれぞれの作品に指揮者はしっかりと影を落として、彼の音楽は聴衆の側に届いていたように思う。

(2019/12/15)


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<Artist>
Kazuhiro KOIZUMI, Conductor / Music Director
Augustin HADELICH, Violin

<Program>
F. Mendelssohn : Violin Concerto in E minor, Op.64
*Soloist Encore
Francisco Tárrega : Recuerdos de la Alhambra[arr. Ruggiero Ricci ]
H. Berlioz : Symphonie fantastique, Op.14