ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル|大河内文恵
ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル
Jean Rondeau Cembalo Recital
2019年11月3日 東京文化会館小ホール
2019/11/3 Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<曲目> →foreign language
≪クラヴサン奏法≫
ジャン・フィリップ・ラモー:プレリュード イ短調
~《クラヴサン曲集》(1706)より
:組曲 イ短調 (抜粋)
~《新クラヴサン組曲集》(1728)より
アルマンド
クラント
サラバンド
3つの手
ガヴォットと6つのドゥーブル
~休憩~
フランソワ・クープラン:プレリュード 第1番 ハ長調 ~《クラヴサン奏法》より
:《クラヴサン曲集》 第1巻 第3組曲より
アルマンド「暗闇」
サラバンド「陰鬱」
シャコンヌ「お気に入り」(2つのシャコンヌ―ロンドー)
ジョゼフ=ニコラ=パンクラス・ロワイエ:《クラヴサン曲集》 第1巻より
敏感
スキタイ人の行進
~アンコール~
フランソワ・クープラン:神秘的なバリケード
ラモー:オペラ「優雅なインドの国々」より 未開人
J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲より アリア(テーマ)
フランス・バロックの鍵盤音楽は苦手だ、ドイツものやイタリアものに比べて、やたらと装飾が多くて、どの曲を聞いても同じにしか聞こえない。と思ったことはありませんか?正直に告白すると、ジャン・ロンドーの演奏を聴くまでは筆者もそう思っていました。もちろん、装飾こそがフランス・バロックの真骨頂であり、その装飾をどれだけ粋に弾きこなせるかが勝負なのだということは重々承知の上で、の話である。
1曲めのプレリュードを弾き始めると、息をするのも唾を飲み込むのも憚られるくらいの強烈な緊張感に会場全体が包まれた。ほんの一瞬で聴き手ひとり残らず、ぐっと惹きつける。このプレリュードの前半は「ノン・ムジュレ」つまり拍節のない自由なスタイルで書かれているのだが、まさに今この瞬間に音楽が彼の指から紡ぎ出されているかのように、鳴っている音と、音の鳴っていない時間を自在に操っているさまは、手品を見ているかのよう。いや、「よう」ではなく、私たちは魔法にかけられてしまったのだ。
つづいてラモーの組曲イ短調からアルマンド、クーランド、サラバンド、、、フランスものは自由だという認識から、リズムを揺らしてみたり凝った装飾を入れる奏者もいるなか、ロンドーは奇を衒った弾きかたはしない。曲の進みかたは至って正統派なのだが、装飾の細かい音も含めて奏でられる音の1つ1つが磨き抜かれ、音と音のつなぎかたが計算し尽くされ、これ以上ないという極上の時間が生成される。かといって、完璧すぎてつまらないのではなく、繰り返すたびに少しずつ変化が加えられるために、繰り返しが繰り返しに聞こえない。次はどうくるのだろう?とワクワクしながら聴き進めていく。
「フランス・バロックの装飾はただの飾りではなく、そこにこそ本質がある」という語りつくされた言葉がストンと腑に落ちる。舞曲ごとの性格の違いは弾き分けたうえで、聴いている瞬間瞬間にはその瞬間しか見えない、この感覚はなんなのだろう?「形を見せない美学」とでも言おうか、そんな確固たる意志を感じた。ラモーの曲には《三つの手》という両手の交差をもつ曲があったのだがこれを聴きながら、ロンドーのスカルラッティも聞いてみたかったなと思った。
後半はフランソワ・クープランの《プレリュード》第1番から。ゆったりしたバスの上で繋留をともなって移ろいやすい旋律がスティル・ブリゼで奏でられると、どこに連れていかれるのかがまったく見えなくて不安になる。バッハのような比較的すじ道がはっきりしている音楽に慣れていると、非常に難解な音楽に聞こえてしまいがちだが、その難解さがロンドーの演奏だとネガティブな感じにはならない。むしろ、この難解さはクセになる。外側から枠をつくって、その中に順序よくおさめていく音楽を根本からひっくり返して、形式的に聴くという音楽の聴きかたそのものに疑問を投げかけ、形式なんてなくてもこれだけ面白いことができるんだぜ、っていうか、まだそんなものに頼ってるわけ?と挑発されているような気持ちになる。
《暗闇》《陰鬱》《お気に入り》と個性的な曲が続いた後、さらに個性的なロワイエの2曲。繊細なレース編みを見ているかのような《敏感》と、ロンドーの打鍵のタイミングや重さや深さと、鍵盤からの指のあげかたのキレの良さを見せつけられた《スキタイ人の行進》。
ここまでですでに充分堪能していたのだが、アンコールが凄まじかった。1曲目はリュートやギターなど他の楽器でもよく演奏される《神秘のバリケード》。何度も聞いたことのある曲だが、一際美しいロンドーの演奏を聴きながら、2つのことに今更ながら気づいた。1つは彼の演奏は楽譜に忠実で余計なアレンジは加えていないこと、もう1つは音そのものの美しさである。
テンポなどを変えたりといった小手先の技は一切使わず、その音楽が持っているものを深いところまで探り、それを淡々と表現していくさまは哲学的ですらある。形式に頼らず、一瞬一瞬の美の連続を聴かせるということは、音そのものが美しくなければ成立しない。すべての音がタイミングも音の強さも音色もすべてのファクターがあるべきところにおさまり、なおかつ全体の調和の取れているというのは、単に楽器の操作が上手いということだけではなく、彼自身の中にあるべき「音楽」があり、自分がそれをできているかどうかを判断できる「耳」も持っているということだ。
さらに彼の音楽の肌理の細かさにも感じ入った。武道や舞踊で「どこまで細分化して意識できるか」が問題になるように、彼の音楽には顕微鏡レベルのミクロ単位で構成されているのではと思われるほどの微細さがある。楽器のテクニックといったレベルを超えた、このような身体能力・状況把握力は、「なんだかよくわからないけれど、すごい!」と聴き手に思わせる要因の1つであると思われる。
さきほど《神秘のバリケード》はリュートでも演奏されると述べたが、ロンドーの演奏にはこの曲に限らず、リュートの奏法に影響を受けたと思われる側面がある。彼の中の「音楽」にはチェンバロだけでなく、いろいろな音楽が詰まっているのだろう。
アンコール2曲目はラモーの「優雅なインドの国々」から《未開人》の部分が演奏された。これは元々アンサンブル用の曲で、ロンドー自身の編曲なのだろうか?原曲の雰囲気を見事にうつし取った楽しい演奏。
最後はJ.S.バッハの《ゴールドベルク変奏曲》から冒頭のアリア(テーマ)。ロンドーが初来日したときに演奏したのがこの《ゴールドベルク》だった。その時には、あまり聞く気になれずスルーしてしまったのだが、アンコールのこの演奏を聴いてそれを激しく後悔した。
プログラム本編が終わった後、ロンドーは一部日本語で挨拶をし、「日本のお客さんが好き」と発言した。おそらく完璧主義の彼には生真面目に聴いてくれる日本の聴衆の集中力は魅力なのだろう。これだけの技術と音楽を持ち合わせている彼が今後、どのような演奏をしていくのか楽しみである。1つだけ、《スキタイ人》を聴いて、リゲティなどの現代曲をロンドーだったらどう弾くのか聞いてみたいと思ったことを付け加えておく。
(2019/12/15)
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<Performer>
Jean Rondeau – Harpsichord
<Program>
« L’Art de Toucher le Clavecin »
Jean-Philippe Rameau : Prélude en la mineur
:Suite en La (extraits) – Nouvelles Suites de Pièces de Clavecin (1728)
Allemande, Courante, Sarabande, Les Trois Mains, Gavotte avec les Doubles de la Gavotte
–Intermission—
François Couperin: L’Art de toucher le clavecin : Premier Prélude en Do Majeur
: Pieces de clavecin Book1: 3rd Ordre
La Ténébreuse (Allemande), La Lugubre (Sarabande),
La Favorite (Chaconne à deux tems – Rondeau)
Joseph-Nicolas-Pancrace Royer: Pieces de Clavecin, Premier Livre(1746)
La Sensible, La Marche des Scythes
–Encore—
François Couperin: Les Baricades Mysterieuses
Jean-Philippe Rameau: Les Indes galantes: Les Sauvages
J.S. Bach: Aria (aus Goldberg Variationen)