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Books|読むと書く|丘山万里子

読むと書く〜井筒俊彦エッセイ集
井筒俊彦著
慶應義塾大学出版会
2009年10月発行
5800円

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

思い惑い心荒らぐ日々には、井筒俊彦の著作を開く。
古今東西というけれど、桁外れな該博を軽やかにまとう彼の言葉の韻律にのって、途方もないスケールの地と宙(そら)の旅ができるから。突き立てたくだらぬ棘がいっせいにへたってくれる。
イスラームの大家だがそんなケチな名で呼ばれる学者ではない。世界中の宗教文化哲学、何より人間を眺めわたし縦横無尽に駈ける巨人さらに詩人は日本稀有と筆者は思う。
キリスト教世界には皆我が事のように群がり知りたがり学びたがり、その欠片を振り回すのに、兄弟世界であるイスラームに興味を抱く人は少ない。筆者とて西欧の地を踏んで初めてその向こうにイスラームを見、手にした『イスラーム生誕』で描かれる「ムハンマド伝」に興奮、そこからの井筒ではあるけれど。『聖書』は読んでも『コーラン』を読まずして神を語るな、とこの時思ったな。「アラビア砂漠の無法者の双璧と謳われた豪勇無比の詩人」T・シャッランの詩の一節「艱難辛苦おそうとも、弱気は見せぬ豪の者、鬱勃たる野心、その欲望はとどめなく、やればなんでもやりとげる・・・」ってな講談調に血沸き肉躍る、『イスラーム生誕』は入門にオススメの書だ。

一方、『読むと書く』はカデンツァ「世界への発信とは」で参考文献にあげたが、彼のエッセイ集。第I章「回教学の黎明」、第Ⅱ章「言葉と“コトバ”」、第Ⅲ章「“詩”と哲学」、第Ⅳ章「推薦文とアンケート」、第Ⅴ章「先行者と同時代」、第Ⅵ章「追悼と追憶」、第Ⅶ章「遍歴と回想」。
つれづれに、その多角多面多種多様をご紹介する。

◆「アラビア文化の性格——アラビア人の眼」(第Ⅰ章)
「アラビア人は古くから眼の鋭いので有名であった・・・灼熱の太陽の下に、あの荒漠たる沙漠を、僅かの草と水とを求めて漂泊し彷徨して行くノマド達にとっては、遥かにうごめく動物の姿を目ざとく見付け出し、或いは無上の憩いを与えてくれる木立を発見し、或いはまた地平線の彼方に巻き起る砂塵を見て直ちに敵軍の陣形やその武器を知る事は、容易ならざる生活上の重大事であったのである。」
イスラエルの荒野やエジプトの沙漠に1分でも立つと実感する。ベドウィンの「沙漠の騎士道」、風にはためく男たちのブカブカ服、女たちの全身すっぽりブルカが生きる知恵だと。

ベドウィンたちの独特な眼にくだらぬ、つまらぬものはなく、どのような微細なものでも隅々まで眺めずには止まなかった。そしてそれぞれに名を付けずにいられない。個々の指のみならず指の間にも名を与え、しかもその間は「無関係」でなければならなかった。アラビア語の語彙の豊富ここにあり。
「こういう風に眺められた一々の物は彼等の感じ易い心に深い感動を与えた。この深い感動は直ちに美しいリズムを有った抒情詩となって表現された。」
しかるに彼等の感動と表現はあくまで印象的断片的で、個々の感動を更に整理、これに論理的構成を与える事はなかったゆえ、近世、ことに大戦後、西欧の文学に接して影響を受けるまで叙事詩や劇は発生しなかった、と。

『コーラン』の論理的矛盾を補うべく奮戦する宗教学・解釈学者の混乱紛糾の限りが逆に本来の『コーラン』の精神を示すとし、これを「著しく視覚的な聖典」と指摘する。
「見よ。その具体的な現れは汝等の眼の前にある。されば見よ。見て、然る後に信ぜよ。」

「眼光射るごとく、常に耳をそばだてる」男たちが生み出す世界のモザイク模様、イスタンブールはブルーモスク朝陽さす光の美、沙漠の風にのるアラブの渺渺たる旋律、街に響くアザーン、筆者の想念はさらにウィーン『トルコ行進曲』まで一気に翔けるわけだ。

◆マホメット
上記「ムハンマド伝」の集約エッセイ。ベドウィン(セム)の非論理的感覚主義、極端な現実主義を打開、救済する道は2つ、すなわちイエスの道とムハンマドの道。
「あの烈しい現実主義の真只中に在って而もよく“我が国は此世の国に非ず”と叫び得たイエスの精神力」に井筒は感嘆しつつ、この叫びに参集する人々が彼の説く福音ではなく「奇蹟」にのみ反応、イエスが“曲がれる世は徴(しるし)を求む”と慨嘆したことを伝える。
一方、ムハンマドはこのセム根性を敢然に掌中のものとし、
「彼は言う、真の徴は一見平凡と見えて人々の普通気付かぬほどの事にあるのだ。徴は天地いたるところに在るではないか、流れる水、空ゆく風、海上を走る舟、飛び行く鳥、乾き切った大地を一瞬にして蘇生させる春の豪雨、山は高く沙漠は広漠と拡がり動物は生きている、これ等は考えて見れば実に絶妙なる不思議ではないのか。」
かくて彼らの感覚主義は「神に向かう門」となり、人々はその言葉に全然違った眼を以って自分の周囲を見廻し、「あらゆる自然のものものに神の栄光の輝くのを見て深い感激に包まれるのであった。」
キリスト教世界とイスラーム世界の相違を生き生き活写するその筆に筆者の胸は轟く。「しるし」の意味もまた、深い。

◆言語哲学としての真言(第Ⅱ章)
<トルコ語><アラビア語><ヒンドスターニー語><タミル語>(井筒は言語哲学者)各論の他<記号活動としての言語><言語哲学としての真言><東洋思想>などの章。
この項は、高野山で居並ぶ真言密教専門家、理論・実践研究者を前に自分はアウトサイダーだが、と前置きしつつ繰り広げた講義である。「存在は言葉である」という根本命題を軸に、存在論的また認識論的順位から言えばまず物があり、それをコトバが命名、指示するが(記号活動)、その逆を語る離れ技。簡単に言えばコトバによる「意味の存在生産機能」だ。パロール、ラングを対立させる以前のラングの底に潜む「深層意味領域」と「意味の太古の薄暗がりから立ち現れてくるパロールの創造性」を入口に、記号学から『易経』、唯識の「ビージャ」(種子、意味の種)領域へ。適宜かいつまむと「意味と意味可能体とがもつれ合い、絡み合いながら混在、それらの発散する気のようなものが意識の認識機構に作用して、感覚的原体験のカオスを横切り、その区切りの一つ一つが明確な、あるいは漠然とした“もの”という存在形象を生み出してゆく」眼前に見えるようではないか。
そこから「宇宙的存在喚起エネルギーとしてのコトバ」が語られるのだが、ここでは『荘子』の「天籟地籟」から弘法大師『声字実相義』の「五大に皆響あり、十界に言語を具す」へ、さらに『旧約聖書』の「創世記」とロゴス、ヒンドゥー教の聖音オーム、初期ヴェーダンタの「声・ブラフマン」、そうしてイスラームの文字神秘主義へと至る。紀元8世紀イランの思想家ファズルッラーの主張、「アラビア語のアルファベットを絶対的コトバ、宇宙根源語のエネルギーが四方八方に溢出しつつ、至るところに存在を喚び出してくる喚び声とみる」、そこに「真言」密教の言語哲学との類似を指摘するのだ。
「イスラームの文字神秘主義や、ユダヤ教のカッバーラーの場合と同じく、真言密教においても、存在世界は根源的にエクリチュール空間であり、そのエクリチュール空間は、声鳴り響く空間なのであります。」
そのはろばろした視界を前に遊ぶのはなんと楽しいことか。言葉で対立、意味の探り合いに神経逆立てる日々の浅薄がつくづくに笑える。

◆「読む」と「書く」(第Ⅲ章)
構造主義の勃興に触れ、読んでいると妙に苛立たしくなり癪にさわるロラン・バルトを(だそうだ)、でも「彼らの言語哲学的見解には、大乗仏教をはじめとする東洋古来の哲学と意外に一致するところが——特にコトバと実在という存在論の基礎領域に関して——ある、それが今の私には面白いのだ。」
バルトの言うヘボ作家、えせ作者(écrivant)と本物の作家(écrivain)の違いの言及「真の書き手にとっては、コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の内にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。」「これからものを書こうと身構えて、内的昂揚と緊張の状態に入った書き手の深層領域の薄暗がりのなかから、コトバが湧き上がってきて一種独特な“現実”を生んでいく、その言語創造的プロセスが、すなわち“書く”ということなのである。」
「書き手の実存はコトバの脈搏」、筆者はこういう言葉に惚れる。

まだまだ話は尽きないが、あとは手にとった方それぞれに遊んでいただきたい。「追悼と追憶」「遍歴と回想」など、しみじみ潤い、またその果てない航路に帆走する喜び。筆者には日々新しい灯台のようなもの。
そして思う。
「彼は物のまわりをぐるっと廻って見る。そして其処に五色燦然たる真珠の玉を幾つも幾つも見付け出す。けれども此の美しい真珠の玉には、それをつなぐ糸が通っていないのだ。」
(現代新アラビア学の碩学アフマド・アミーンが砂漠のアラビア人について語った言葉)
仏教経典の経典(スートラ)は「糸」の意。一本の糸に色々の美しい花を通して作る花環。
『情報の歴史』(松岡正剛監修)を見てささっと同時代世界俯瞰情報を入手(筆者も便利しているが)、データを適宜選択浅堀のちキーボードを叩き一文を物する物書きや学者が「つなぐ糸」。
脈打つ肉体で書くのなら、自分はそこにどんな「糸」を通せようか。

(2019/12/15)