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松平頼曉 88歳の肖像 声楽作品を中心に|齋藤俊夫

松平頼曉 88歳の肖像 声楽作品を中心に
Yori-aki Matsudaira: Portrait Concert 2019

2019年10月30日 東京オペラシティリサイタルホール
2019/10/30 Tokyo Opera City Recital Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 石塚潤一(Jun’ichi Ishizuka)

<演奏>        →foreign language
ソプラノ:太田真紀
コントラバス:溝入敬三
ギター、エレクトリック・ギター:山田岳
ヴィオラ:甲斐史子
ピアノ:中村和枝

<曲目>
(全て松平頼曉作品)
『歌う木の下で』(2012,19)
  Sop,Cb.
『グレーティング』(1998)
  Gt.
『反射係数』(1980)
  Sop, Vla, Pf.
『アーロンのための悲歌』(1974)
  Sop.
『レプレースメント』(1987)
  Cb.
『時の声』(2013)
  Sop,e-Gt.
『サブスティテューション』(1972)
  Sop,Pf.

 

“What’s next?”、松平頼暁の、ソプラノと2人の騒音奏者と指揮者、テープのための作品名であり(+)、1972年ISCM音楽祭で流行語となった言葉である(*)。筆者にとって松平頼暁の音楽の根底にある精神はこの言葉によって表される(+1)。だが、今回1972年から2019年(++)までの松平作品を眺めた時、この“What’s next?”という言葉と、会場で実際に聴く彼の音楽との齟齬を感じざるを得なかった。

“What’s next?”という問いかけは、次に何が来るのかわからないからこそ問いかける意味がある。しかし今回、少なくとも筆者は、松平の音楽に内在するはずのこの問いかけが生み出すであろう未知の回答――同じ作品を繰り返してもまだ未知であり続ける回答、つまり新しいnext――を耳にすることが少なかったのである(+2)。

まず、1つの作品内での音楽の進行につれて、コレが来た、次にアレが来ることはないだろう、だからほらソレが来た、といったように、「普通ならば来ないであろうものが次に来る」という「nextの逆算」ができてしまったのである。この逆算は『グレーティング』『アーロンのための悲歌』『レプレースメント』『サブスティテューション』でほぼ等しく通用してしまった。松平頼曉をそれなりに追いかけている筆者だからかもしれないが、ただ聴き流すには厳しすぎる音楽なのに、(+3)聴いていて、音楽の感興より次に何が来るかの予想が先に来てしまう。予定調和を禁じたはずの音楽の中にそれを感じてしまったのは否定できない。

さらに、『反射係数』でのオラショと松平の対峙においては松平の異化作用は空振りに終わった。それが最も著しく現れたのは全5曲中の最終曲「アンティフォニー」である。オラショ「ぐるりおず」をヴィオラが奏し、原曲のグレゴリオ聖歌「オー・グロリオーザ」をソプラノが歌い、その2つを合成したものをピアノが演奏するのだが、ピアノがプリペアされているのでその全ての音がプツプツと途切れて旋律を成しておらず、何をしているのかわからない。惰性的なプリペアド・ピアノの使用では何も生まれない。オラショとグレゴリオ聖歌の持つ始原的なエネルギーを前に松平の意図した異化は残念ながら現出しなかったのだ。本作品の“What’s next?”はどこにあったのか?

近作である『歌う木の下で』のソプラノとコントラバスのアンバランスさの妙、『時の声』での軽妙なギターとオノマトペのカノンでは筆者も自由な感覚を味わえたが、21~47年前の作品がもう“next”の音楽でなくなってしまうとすれば、それはあまりにも短命な“next”ではあるまいか。いや、そもそも松平頼曉の音楽の中に宿る“next”とはその程度のものであっただろうか?

“What’s next?”は一時期の流行などではなく、常に、今、ここに音楽の形をとって現れるべき問いかけであろう。それが今回の演奏の多くにおいて現れなかったとすれば、作品か演奏か、何かどこかに既存のものに安住しているところがあったと見ねばなるまい。今、ここに現れ、今、ここを問いかける松平の“What’s next?”をこそ求め、継承したい。

(*)松平頼暁『音楽=振動する建築』青土社、p116.

(2019/11/15)

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(お詫びと訂正)
(+)当初「打楽器作品」と記述しましたが、事実誤認との指摘を受け、http://www.komp.jp/yoriaki.html および雑誌『洪水』第13号の「松平頼暁作品表」、p80で確認し、訂正いたしました。お詫び申し上げます。
(++)当初「1972年から2013年」と記述しましたが、『歌う木の下で』の内2曲は2019年の作品であるとの指摘を受け、訂正いたしました。お詫び申し上げます。

上記の事実誤認の他にも、文意の不明瞭な所があると判断し、掲載後に加筆訂正を加えました。
以下、改訂前の文面
(+1)一文追記
(+2)しかし今回、少なくとも筆者にとってはこの問いかけに対する回答の多くは既に与えられていた。(改訂)
(+3) ただ聴き流すには厳しすぎるのに、(加筆)
何卒ご了解くださるようお願い申し上げます。
補論参照


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<players>
Sop:Maki Ota
Cb:Keizo Mizoiri
Gt,e-Gt:Gaku Yamada
Vla:Fumiko Kai
Pf:Kazue Nakamura

<pieces>
(All pieces are composed by Yori-Aki Matsudaira)
Under the Singing Tree (2012,19)
  Sop,Cb.
Grating(1998)
  Gt.
Albedo(1980)
  Sop, Vla, Pf.
Elegie für Aron(1974)
  Sop.
Replacement(1987)
  Cb.
Toki no Koe(2013)
  Sop,e-Gt.
Substitution(1972)
  Sop,Pf.

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(補論)
上記の通り改訂を加えましたが、それだけでは筆者の真意が伝わりにくいかとも思いますので、以下の補論を付け加えさせていただきます。

まず『What’s Next?』という作品について、この作品を初めて知ったのは2014年発行の雑誌『洪水』の特集「松平頼暁What’s next?」であり、同誌にも本作の編成と概要は記述してありましたが、そこは記憶が定かでなく、しかし特集の題でも扱われているこの作品名を寄稿者の多くが松平への期待を込めて使っていたことを記憶しておりました。

その後、『音楽=振動する建築』を入手し、そこでの1972年ISCM音楽祭でこの言葉が流行語となった、とのエピソードを記憶したため、そのエピソードの書かれている部分を今回再読した所、115頁に「アンサンブル20世紀からの打楽器奏者二名によって《What’s next?》の練習が始まる」との記述があり、そこだけを見て打楽器2人の作品と早合点し、当該記述の直前に「ピーター・ブルヴィクの指揮、ロズウィタ・トレクスラーのソプラノ」とあったこと、さらにこの著作の「Theatre Piece “What’s next?” について」という章で打楽器奏者ではなく騒音発生者と明記してあり、本作品の詳細な解説があったことを見落としてしまいました。

客観的データの書かれている書籍に当たりつつそれを見落として記述してしまったことはありえないことであり、深く反省しお詫び申し上げます。

しかしながら、加筆部分「筆者にとって松平頼暁の音楽の根底にある精神はこの言葉によって表される」という文もなんら偽りではなく、筆者にとっての“What’s next?”とは「作品名」だけに留まるものではなく、この「言葉」が松平の未だ衰えぬ創造精神を象徴するものであると考えております。

さらなる加筆部分「松平の音楽に内在するはずのこの問いかけが生み出すであろう未知の回答――同じ作品を繰り返してもまだ未知であり続ける回答、つまり新しいnext」、における「この問いかけ」とは、これまでなかった技巧を用いるといった表面的な新しさではなく、「同じ作品を繰り返してもまだ未知であり続ける回答、つまり新しいnext」をもたらすもの、換言すれば、筆者が「松平の音楽に内在するはずのこの問いかけ」――つまり“What’s next?”――としたものとは、何度でも接する度に現れ、何度でも「新しいnext」を生み出すものなのです。そして、何度でも「新しいnext」を生み出すために、「予定調和」――平たく言えば、ありふれた常套句や常套的手段の使用を松平は拒絶し続けてきたと考えます。

松平頼暁とは、今でも小さな、それこそ客が10人程度のライヴハウスの中に座っているほどの進取究明精神の持ち主です。その彼が予定調和、常套句に甘んじることがありましょうか。作曲された当時は新しかったが、今では新しくなくなってしまった音楽を松平が書くはずはない、そう筆者は信じております。また、〈伝統的な音楽・技法〉といったものでも、それが私たちに訴えるものを持つのはそこに「繰り返してもまだ未知であり続ける」ものがあるからではないでしょうか。改訂せずにおいた部分にある「いや、そもそも松平頼曉の音楽の中に宿る“next”とはその程度のものであっただろうか?」という記述は、松平の“next”とは「未知であり続ける」ものであるはずなのに、その未知なる“next”が聴き取れなかったことへの驚きと、所在の知れない不安と恐れによるものです。

筆者の耳が悪いから本当は舞台上に現れた“next”が聴き取れなかった、もしくは、文章上から補論にあるようなことは読み取れなかった、というご批判があれば甘んじて受けるよりほかにありません。筆者は本批評とこの補論によってさらに恥を重ねたまでです。それでも、筆者は今回の演奏会をただひたすらに聴いた結果としての本批評でデータの間違い、文章の稚拙さこそあれ、嘘偽りは一切書かなかったことをここに表明いたします。

(2019/11/20)