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読売日本交響楽団 第592回定期演奏会|能登原由美

読売日本交響楽団 第592回定期演奏会
Yomiuri Nippon Symphony Orchestra Subscription Concert No. 592

2019年10月9日 サントリーホール
2019/10/9 Suntory Hall
Rviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Phots by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

〈出演〉        →foreign language
指揮|ユーリ・テミルカーノフ
バス|ピョートル・ミグノフ
男声合唱|新国立劇場合唱団
合唱指揮|冨平恭平
特別客演コンサートマスター|日下紗矢子
管弦楽|読売日本交響楽団

〈曲目〉
ハイドン:交響曲第94番ト長調〈驚愕〉
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番変ロ短調作品113〈バビ・ヤール〉

 

対象とどのような距離を取るべきか。いつも悩む。対象とは、伝えようとするもの、表現しようとするもの、明らかにしようとするもののこと。日常に置き換えればわかりやすい。近過ぎればほんの一部しか見えず、遠すぎれば全体は見えても細部はボンヤリとする。

この演奏会の場合、様々なレヴェルでの「対象からの距離」が鍵となったのではないか。とりわけそれがより顕在化したのは後半の演目。ショスタコーヴィチが1962年に完成させた13番目の交響曲〈バビ・ヤール〉だ。フルシチョフのスターリン批判により「雪解け」が始まっていたとはいえ、共産党一党独裁体制は変わらない。その体制への疑義を詩人が言葉で訴え、作曲家がそれを音楽で表し、演奏者が実際の音として聴き手に伝える。それぞれが対象との向き合い方を問われるのだけれども、そこには当然ながら「対象からの距離」も含まれる。

作曲家ショスタコーヴィチの目に止まったのはロシアの詩人、エフトゥシェンコによる「バビ・ヤール」。ウクライナにある渓谷、バビ・ヤールで起きたナチスによるユダヤ人大量虐殺事件を扱った詩だ。さらに、同詩人による他の詩も取り入れ、ソビエト社会の内部に見られる矛盾、すなわち革命の陰で抑圧され虐げられた人々―ユダヤ人や戦争未亡人などの貧民―の存在を告発する内容とした。すでにスターリン亡き後とはいえ、発表当初はロシア当局から様々な圧力を受け、詩の一部を改作する憂き目にもあったようだ。

そうした詩をテクストにするためであろう。この交響曲を印象付けるのは、何よりも冒頭から連綿と続く陰鬱な響きである。バス独唱と男声合唱という低声部による声楽編成だけがその理由ではない。第1楽章冒頭から低音で繰り返し奏される主題にせよ、第3楽章を覆う低弦の沈鬱な音色にせよ、暗く静かに地を這うその響きはまさにレクイエムを思わせる。だがショスタコーヴィチがそこで伝えようとしたのは、死者への祈りよりもむしろ、社会の底にはびこる矛盾だったのではないだろうか。

このような作品を聴き手に伝える際、奏者の側のスタンスはどうあるべきか。今回の演奏を聴いて考えさせられた。

ロシアの巨匠、テミルカーノフの場合、音楽に対する眼差しは冷徹だ。おそらくどの曲でもその姿勢は変わらないのだろう。指揮に際し、その対象、すなわち作品や実際に鳴り響く音楽とは常に一定の距離を保っている。それが今日の主演目、つまり冷戦期のソビエトの、その社会の闇を告発したショスタコーヴィチのこの交響曲においては、まさに功を奏するものとなった。

テミルカーノフは、メロディやリズムの形、テンポやダイナミクス、アーティキュレーションなど、管弦楽パートには総じて深い彫り込みを入れることはしない。あらゆる情動の誘惑にも動じることなく、ただ淡々と流れを作っていく。唯一、こちらに語りかけてきたのは、貧しい女性たちのもつ空缶や鍋の音を表すカスタネットとウッドブロックの音だけだ。

一方の声楽パート、とりわけバス独唱部はこれとは対照的であった。独唱者のミグノフは、抹殺された人々の嘆きや抑圧に苦しむ人々の思いを代弁するかのように大きく激しく表情を作り、その不条理を告発する。男声合唱は時にはその声に呼応し、時には無関心に突き放す。さらに、両者の間に生じたダイナミズムが、スタティックに流れ続ける管弦楽パートとのコントラストを浮き彫りにするのである。

こうして、決して声高に告発されることのない、いや告発されてはならなかった社会の暗部が管弦楽により静かに提示される一方で、独裁国家のスケープゴートとなった人々の嘆きや民衆の叫びが独唱や合唱とともにそれぞれ層をなし、全体として大きなポリフォニーを形成していった。まさにテミルカーノフの演奏が、音楽内部の重層性や多面性とともにそのテクストが投げかける社会の多層性をも照らし出したのである。これは音楽という対象に対しても、あるいはテクストが描くソビエト社会に対しても「適度な距離感」をもった彼だからこそなし得たことではないだろうか。

最後に、前半のハイドンについて。昨今主流の小編成による機動力のあるハイドンからすると、弦楽器群の数といい、ゆったりした演奏スタイルといい、前時代的と揶揄することもできそうだ。だが細かく聴けば、掛け合いや畳み掛けといったモチーフ相互の関連性が非常に効果的に引き出され、さらに主題やフレーズ、節の形成過程を通じて生じるエネルギーの推移が音楽全体を確実に牽引しているのがわかる。

ただし、ここでも決して奇を衒わない。それは「驚愕」という副題の由縁ともなった第2楽章でも同様で、その逸話にあるようなダイナミクスの変化など意に介さないといったところだ。その分、ハイドンならではのユーモアは減じてしまったが、むしろ皮肉なことに、それが続く後半の〈バビ・ヤール〉第2楽章で描かれた「ユーモアを失った人間」と妙に呼応したようにも思えた。もちろん、テミルカーノフはそこまで「鳥瞰」していたわけではあるまいが…。

 (2019/11/15)

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〈players〉
Yuri Temirkanov (Conductor)
Petr Migunov (Bass)
New National Theatre Chorus (Men’s Chorus)
Kyohei Tomihira (Chorusmaster)
Sayako Kusaka (Special Guest Concertmaster)
Yomiuri Nippon Symphony Orchestra

〈pieces〉
Haydn: Symphony No. 94 in G major “Surprise”
Shostakovich: Symphony No. 13 in B flat minor, op. 113 “Babi Yar”