特別寄稿|トマト野郎バーゼルに降り立つ〜パウル・ザッハー財団訪問記(1)|浅井佑太

トマト野郎バーゼルに降り立つ〜パウル・ザッハー財団訪問記(1)
A tomato-eater in Basel – Report on visit to the Paul Sacher Stiftung (1)

Text & Photos by 浅井佑太(Yuta Asai)

それは恐ろしく不味い夕食だった。
その街で出会った人々や訪れた演奏会のことは忘れてしまっても、5年前に食べたそのハンバーガーの不味さだけは妙に脳裏にへばりついてとれない。――凝結した血のようなケチャップ、不味い(としか形容しようのない)ハンバーグを挟む萎びたパン、妙にヘナヘナになったポテト、それから水っぽいコーラ。
それでも僕は2015年の10月から2ヶ月間ほど、夕方5時15五分、決まってそのマクドナルドに入店し、颯爽とレジに向かうと、
「リトル・ホット・トマトセットひとつお願い」
と一言。
それは僕が知っている限り、バカみたいに物価の高いスイス・バーゼルで最も安い外食のメニューで、それでも日本円にすると1200円くらいした。ビッグ・マックセットが2000円はする国だ。お金もなければ自炊する気力もない自分にとって、それはほとんど避けがたい選択だった。
2週間もそんな生活を続けていると、注文する必要すらなくなった。いつも決まってその時間にレジにいる金髪の少しやさぐれたバイトの女の子は、僕のことをしっかり覚えていて、
「Little Hot Tomato?」
と先回りして注文を受けてくれる。僕は少しはにかんだような顔をして頷くだけでよかった。

「浅井くん、それはきっと裏でバイトの人たちに、トマト野郎って呼ばれていたね」
日本に帰ってからその話をすると、大学の先輩の古本さんは何故か得意げにそう注釈を加えた。
とは言え、あり得そうな話だな、と僕自身思った。実際、マクドのメニューの中でも際立って安っぽいリトル・トマトセットを毎日食べ続けたのは僕くらいのものだったはずだし、さらに言えばバーゼルを訪れるアジア人の数もそれほど多くはなく、良くも悪くも自分は目立った異邦人だったはずだった。
青白い痩せた顔をして、2ヶ月の間、毎日リトル・トマトセットを注文する自分を見て、
(このトマト野郎、一体何しにバーゼルに来てるんだ?)
なんて、一度くらいはレジの女の子も思ったに違いない。

***

カーニバル期のマルクト広場
(中央の赤い建物が市庁舎)

もちろん僕だって、なんの理由もなしにわざわざバーゼルに来たわけではなかった。
早い話、調査のために来たのである。自分が研究しているアントン・ウェーベルンという作曲家のスケッチや自筆譜資料の大部分は、ここバーゼルでしか見ることができない。それで結局、2015年から今日に至るまで、僕はほとんど毎年バーゼルを訪れ、延べ半年以上この街で暮らすことになる。

さて、僕がその頃、通い詰めたそのマクドは、マルクト広場という広場に面していて、実はバーゼルの中心部の一等地にある。真ん前には16世紀に建てられた壮麗な赤い市庁舎があって、フレスコ画の外壁を見上げて足を止める観光客たちでいつも辺りは賑わう。少し歩いてフライエ通りに進めば、ブティックやら時計店が立ち並ぶ。要するに観光客と金持ちが集まるゾーンと言っていいかもしれない。
「随分金持ちな感じのある街だな……」
というのが実際、僕の最初の印象だった。
当時暮らしていたドイツのケルンと比べてみると、一目瞭然という感じがした。例えば、道ゆく人の服装のお洒落な感じとか、トラムの清潔さとか、立ち並ぶ住居の豪奢な佇まいとか、等々々――まぁ、もっともその分、物価はドイツの2倍以上で、ただでさえ中身がすっからかんに近い僕の銀行口座に向かって、ことあるごとに容赦無くズドーンと砲丸を打ち当ててくるのだが……

バーゼル大聖堂

話が少し逸れたが、フライエ通りから一本小道を挟むと、今度はミュンスター広場という比較的静かな広場に出る。ライン川に面したその広場には、2つの塔が目印のバーゼル大聖堂が位置していて、その反対側には自然史博物館がある。時期によっては屋台が並ぶこともあるが、観光客が訪れることはそれほど多くない。そしてこの広場の片隅に、「お目当ての」パウル・ザッハー財団がある。もっとも財団とは言っても、大きな木製の扉がどんとあるだけで表札もなければ、目印のようなものもないから、一見するとそれとは分からない。インターホンの脇に小さく、金字で「Paul Sacher Stiftung」と書いてあるだけ。けれどもここには、ウェーベルンのみならず、ストラヴィンスキーやブーレーズといった20世紀以降の多くの作曲家の自筆譜資料が山のように保管されていて、世界各国から研究者たちが集う場所になっているのだ。

この財団の創始者であるパウル・ザッハーという人は(異論はあるだろうが)一言で表すならば「偉大なディレッタント」というのが一番しっくりくるように思う。
1906年にここバーゼルで生まれた彼は、フェリックス・ワインガルトナーに指揮を学ぶと、20歳の時には自身でもオーケストラを組織する。とはいえ決定的な転機は、28歳の時に、10歳年上の未亡人マヤ・ホフマンと結婚したことだろう。今日でもタミフルでお馴染みの世界的製薬会社エフ・ホフマン・ラ・ロシュのオーナーの未亡人であった彼女と結婚したザッハーは、彼女の受け継いだ巨万の富でもって自身の音楽的野心の実現に力を注ぐ。
もっとも彼の仕事の中で一番よく知られているのは、同時代の様々な作曲家に作曲の委嘱・初演を行ったことだろう。委嘱先の作曲家の名前をいくつか挙げるならば、リヒャルト・シュトラウス、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、クルシェネクと錚々たる顔ぶれが連なる。とりわけ有名なのは、バルトークとの関係だろうか。彼の代表作のひとつである《弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽》も委嘱作のひとつであり、ザッハーの手によって1937年にバーゼルで初演されている。

バーゼルの街角

先に述べたパウル・ザッハー財団が設立されるのは、こうした精力的な音楽活動が一段落した晩年の1973年のことである。もともとはザッハーの蔵書を保存する私設図書館として誕生したものの、数年後には、20世紀以後の著名な作曲家や演奏家の遺産を収集・保存する世界屈指のアーカイブとして機能し始める。80年代以降には一般の研究者にも公開され、20世紀以降の音楽の研究を行う研究者には切っても切り離せない空間となっている。
――もちろん資料の収集や保存に必要な資金を支えているのは、未亡人マヤ・ホフマン改め、マヤ・ザッハーに流れ込んだ莫大な遺産であることは言うまでもない。

パウル・ザッハー財団の開館時間は、朝の9時から、1時間の昼休みを挟んで、ぴったり午後5時まで、その時間になると問答無用で追い出される。そういうわけで5時に財団を出ると、僕はまっすぐ例のマクドへと向かう。テクテクテク。
「Little Hot Tomato?」
ハイハイ、またあんたね、と例の金髪のやさぐれたバイトの店員に尋ねられるのが5時15分。
それから大体、不味いハンバーガーを嫌々貪りながら、スマホをいじって体を休める。財団での調査についてはまた次の機会に詳しく述べるが、ヘトヘトになるので、基本的には何もする気にはならない。それでもぼんやりした頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、将来のこと、生活のこと、研究のこと、それからお金のこととか、お金のこととか……
当時はまだギリギリ20代で博士課程に入ったばかりの頃だったとはいえ、同年代の友人は大体就職していたし、実際稼ぎも結構いいことは知っていた。それに比べると、自分はちゃんとした収入もないどころか、借金もあったくらいだし、年金も健康保険もとてもじゃないが払っている余裕はなかった(今でもほとんど変わらないが)。好きでやっているとはいえ、音楽学なんてお金にならないし、遥々バーゼルまで来て、毎日マクドの最安メニューだなんて……、と正直思わないでもなかった。要するに、少し寂しかったのだ。そしてそういう妙に感傷的になる時に限って、高校時代の友人から結婚の報告のメッセージ(と式へのお誘い)が届いたりなんかして、やっぱりそれはトマト・バーガーを食べている時だった。

***

ところでまた別の年にバーゼルを訪れた時のことだが、生前のパウル・ザッハーを知るおばあさんと話したことがある。
「ザッハーは野心のある人で、でも人間的には付き合いやすい良い人でね」
と、当時彼の下で働いていた頃の話を交えつつ、それからこう付け加えた。「もちろんそりゃ、年上の未亡人と結婚したのは、お金、というか、自分の音楽活動のためだったけれど」
話の真偽は僕には分からない。
「愛」と「芸術」、どちらが先か?
まぁ、もっともオスカー・ワイルド風に言うならば、どちらも模倣のひとつの型に過ぎないのだが……

(第2回に続く)

註)本稿は基本、隔月掲載となります。

 (2019/11/15)

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浅井佑太(Yuta Asai)
1988年、大阪生まれ。2011年、京都大学経済学部経済学科卒業、2017年、京都大学文学研究科博士課程、単位取得満期退学。専攻は音楽学。