音楽にかまけている|バーゼル劇場のノーノ|長木誠司

バーゼル劇場のノーノ
Luigi Nono: Al gran sole carico d’amore in Basel

Text by 長木誠司(Seiji Choki)

来日などしないから、日本の音楽ファンにはさほど知られていないが、ヨーロッパにはそのときどきに意欲的な活動をして、地元のファンだけではなく、通からも他国からも注目される歌劇場が常に存在する。支配人や芸術監督の采配次第で決まるこうした劇場運営は、ひとりに全権を任せることを嫌う日本社会の文化行政ではなかなか実現できないが、欧米ではよくあることである(忖度でなんとなく独裁体制に入っていくような日本の場合、たしかに危険な方法かも知れないが)。現在そうした注目株の劇場としては、ドイツのフランクフルトやハノーファー、オランダのアントワープ、スペインのマドリード、そしてスイスのバーゼル等々が挙げられるだろう。

スイスのバーゼル劇場(Theater Basel)は、よくドイツの地方劇場にあるような、オペラとバレエと演劇をすべて受け持つ組織であるが(「3種目劇場Dreispartentheater」という言い方がドイツ語にはある)、大劇場と小劇場、そして演技可能なホワイエを持つ多機能の劇場でもある。組織としては盤石で、専属のオーケストラは持たないが、古楽器アンサンブルを含め、バーゼル交響楽団などいくつか定常的にピットに入る団体は決まっており、それが柔軟な上演を可能にしている。

20世紀中は田舎くさい普通の劇場であったが、2006年に演出家のジョルジュ・デルノンが支配人になって以来(2012年からはオペラ部門の監督にも)、採り上げる演目や上演方法の工夫によっていろいろと画期的な活動を行い、何度も賞を受けるような劇場へと変貌した。デルノンは2015年にハンブルク州立歌劇場に移ったが、バーゼル劇場はその後も攻めの姿勢を失っていない。

《愛に満ちた偉大なる太陽の下で》より
c Birgit Hupfeld

この10月に初日を迎えたのが、ルイージ・ノーノが1975年に完成させた2番目のオペラ《愛に満ちた偉大なる太陽の下で》である。ノーノ中期の、政治的姿勢がはっきりし、電子音楽との密接な取り組みが始まっていた時期の作品であり、同時にオペラの新しい形態を当時の先端的な演劇手法に求めた画期的な舞台作品である。ノーノ自身はこの作品を「オペラ」とは名づけずに、「舞台付き演劇行為azione sceneca」と呼んだが、ソ連の演出家ユーリ・リュビモフとのコラボによって、マルクス、レーニン、ブレヒト、パヴェーゼといった多数のテクストを散りばめた、コラージュかモンタージュのようなシーンが連続するだけの筋書きのない音楽劇を創り上げた。

《愛に満ちた偉大なる太陽の下で》より
c Birgit Hupfeld

タイトル自身が、ランボーがパリ・コミューンについて書いた詩『ジャンヌ・マリーの手』から採られたことからも分かるように、2部からなる全体はこの挫折した革命運動へのオマージュであり、またロシア革命からキューバ革命に至るプロレタリア革命への共感から創作されたもので、全体は1967年に殺害されたチェ・ゲバラへの追悼にもなっている。

東側社会の崩壊後、この作品を上演する意義はいったん霞んでいたかに思われたが、21世に入ってクラウス・ツェーエラインがオペラ部門の監督を担っていた時代のシュトゥットガルト州立歌劇場が再演の英断に踏み切って以来、新たに採り上げて現代的意義を問う劇場が増えてきている。今回はスイス初演ということになった。担っているイデオロギー自体が時代に即さなくなったとしても、この作品の持っている可能性はいくらでもあるということだ。

《愛に満ちた偉大なる太陽の下で》より
c Birgit Hupfeld

そもそもノーノが狙っていた市民・民衆の意識改革のようなものは、時代や体制が変わっても常にひとびとに必要とされるべきものであるし(ことに今の日本には)、それよりもこの作品は派手で暴力的な革命そのものより、その裏でほぼ名もなく活動していた女性たちを「主人公」に見立てているところがあり、ランボーの詩もパリ・コミューンに直接参加して指導的な役割を果たした女性教師ルイーズ・ミシェルを念頭に置いて書かれたものである。そのほか、コミューンに関してはルイーズ・ミシェルの回想録(1886)、ロシア革命については1907年ゴーリキーによる『母』(ブレヒトによって改作されたもの)、トリノの紛争における女性労働者デオラ、そしてボリビアにおけるゲリラのタニア・ブンケらのことばがテクストとして登場する。

ノーノはこれらのテクストを役柄として歌手に与えるのではなく、複数の歌手にまたがって歌わせており(タニア役以外の個々の歌手は役として同定されていない)、また時代を超えたテクスト上で彼女たちを遭遇させることによって、けっして表には顕されてこなかった、その意味で表象できない女性の視点から革命の挫折を描いている。ただし、縦横無尽にモンタージュされていくテクストと舞台場面と、そのなかでの役柄の交錯は、一目見てすべて理解することは難しい。事前に十分な用意をしても、どうなるものでもないように思う。そのある意味混沌とした舞台の印象は、もちろんノーノが意図したことだろう。

《愛に満ちた偉大なる太陽の下で》より
c Birgit Hupfeld

巨大な女性の像と乳房を主たる装置にした、ゼバスティアン・バウムガルテン演出によるバーゼルの舞台は、すでに遠のいた時代の時代性を振り返るという視点も採っており、全体はジャーナリストらしいひとりの女性が映像フィルムを回し始めるところから始まって、随所で彼女が舞台上の労働者たち、運動家たちに長いマイクを差し向けてインタヴューするというような場面が置かれていた。また、ニクソン(ヴェトナム終戦宣言)、カストロ(キューバ危機)のような代表的な人物の映像も大きなスクリーン上に挿入される。ただし、時代設定は現在で、あくまでもいまの視点からこの時代(の女性たち)のあり方を批判的に追っていく形が採られている。ひとりの役を分担して歌う4人のソプラノは、みな今風の短いスカートに高いヒールを履いた、ちょっといかれたアブナイお姉ちゃんという風である。その彼女らが、しかし実に真摯なテクストを歌う――。

映像は多くの場面で具体的・抽象的に演技を補強しているが、その使い方は今の技術からすればきわめて慎ましい(それがよい)。巨大な女性像が汚され、やがては波のなかに埋もれていく様子は美しすぎるくらいに詩的であったが。全曲を通じて最大の貢献者は合唱だろう。あらゆる場面に異なった服装で登場し、困難なパートを組織的に動きながら、さまざまな役柄を柔軟に演じていた。女性の歴史、ひとびとの歴史であることが十分に伝わる舞台であった。

(2019/11/15)

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長木誠司(Seiji Choki)
1958年福岡県出身。東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。音楽学者・音楽評論家。オペラおよび現代の日本と西洋の音楽を多方面より研究。東京大学文学部、東京藝術大学大学院博士課程修了。著書に『前衛音楽の漂流者たち もうひとつの音楽的近代』、『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』(作品社)、『オペラの20世紀 夢のまた夢へ』(平凡社)。共著に『日本戦後音楽史 上・下』(平凡社)など。