評論(連載2)|強制収容所の音楽—アウシュヴィッツのオーケストラ—|藤井稲
強制収容所の音楽—アウシュヴィッツのオーケストラ—
Musik im KZ: Die Häftlingsorchester im nationalsozialistischen Konzentrations- und Vernichtungslager Auschwitz-Birkenau
Text & Photos by 藤井稲(Ina Fujii)
1. 戦後ドイツにおける「強制収容所の音楽」の研究
ベルリンに住みはじめてまず私が驚いたのは、メイン通りや国会議事堂のそばにある追悼碑をはじめとした、街中に無数にあるナチス時代を忘れないための記念碑の数である。テレビをつければ、毎日何かしらこの時代のドキュメンタリー番組が放映されており、学校教育でも徹底的に教育されている。その中でも強烈に人々に訴えられているのは、強制収容所(以下KZと記載)ではないだろうか。
KZと言えばアウシュヴィッツという名称があまりにも有名になり、ナチ強制収容所とはアウシュヴィッツのことだと思っている人が少なくない。KZはアウシュヴィッツだけでなくドイツ国内外にかなりの数が点在しており、その数はおよそ1000施設あったとも言われている。だが、すべてのKZにアウシュヴィッツのようなガス室があった訳ではなく、規模や目的は様々であった。KZに捕えられた際に人々から没収した物品や囚人を労働力として搾取したことが、ドイツ経済の莫大な利益となっていたことは忘れてはならない。収容された人々はユダヤ系の人々だけでなく、共産党員、社会党員、牧師、シンティとロマ、ホモセクシャル、エホバの証人、障害者、反社会的行為を行った人などもいた。
ドイツのベルリン、ミュンヘン、ワイマール、ツェレ、ハンブルグは華やかな文化と芸術で多くの観光客が訪れるが、それと相反するように郊外に出れば収容所記念館が残されている。そのひとつひとつが当時のものをできるだけ残しながら保存されており、戦争の恐ろしさを生々しく今に伝えている。
戦後ドイツは二つの国に分断され、「KZの音楽」についての受容や研究もそれぞれで違っていた。本格的に研究がはじまるのは、ドイツが再統一されてからである。
<はじまりは東ドイツのプロパガンダとして>
ドイツで最初に「KZの音楽」に着目したのはドイツ再統一前の旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)であった。旧東ドイツはナチ時代において政治的にKZに囚われた人々を英雄視し、彼らが密かに歌った歌をファシズムに立ち向かった抵抗歌(Widerstandslied)として当時の社会主義政権のプロパガンダとして収集し紹介していたのだ。現在ベルリン芸術アカデミーに資料の一部が保管されている。
実際に資料を閲覧したとき、当時、囚人としてKZで50曲もの歌をつくったアレキサンダー・クリシェヴィッチAleksander Kulisiewiczについての東ドイツ政府の表明が書かれた文書を目にした。文書によると彼の歌は東ドイツ政府により「KZの歴史の真実を伝えていない」と記載されていた。ファシズムに対する力強い抵抗歌が求められ、歴史に残せる歌なのかどうか検閲が行われていたことが見てとれる。
一方、旧西ドイツでは80年代後半に民俗学と音楽学の分野でこのテーマが扱われ始めた。そこではKZで歌われていた歌や現チェコのテレージエンシュタットの音楽活動についての研究が中心であった。テレージエンシュタットは対外的にKZのイメージを良くするために文化活動を行い、音楽においてオーケストラの演奏会、オペラの上演などが催されていたことがあり、他のKZとは別の側面があったからと思われる。
いずれにしても、楽器が要らず誰もが参加できる歌という音楽活動が、収容所という過酷な生活条件のもと最適な音楽活動であったことは想像される。歌について多くの証言や資料が残っているが、長い間「KZの音楽」は特異な史実として扱われていた感が強くみられる。
囚人の周りを楽団が囲み、明るい音楽を演奏しながら死刑台へ行進する。何時間も立たされる点呼場や労働への行進の際、歌いたくもない陽気なドイツ語の歌を歌わされる。歌わなければ暴力を受け死にいたることもあった。まさに音楽は拷問であった。
反面、大きなリスクを冒してまでナチスに知られないように極秘で音楽会、合唱、演劇を行ったり、自分や人を勇気づけるために歌を口ずさみもした。言葉にならない想いを歌や音楽に込めたのだ。それは、過酷な日常から人間性やアイデンティティを守るために必要不可欠なものであったことは疑う余地がないだろう。このようにKZは、拷問と生きる糧、という音楽の相反する二面性を如実に映し出しているのである。
<アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の女性オーケストラ>
「KZの音楽」のテーマがタブー視されていたにもかかわらず、ひときわ異彩を放っていたのがアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の女性オーケストラである。女性だけで編成された、世界でも稀なオーケストラかもしれない。しかも、そこはアウシュヴィッツである。
戦後その存在が知られることとなったのは、アウシュヴィッツ・ビルケナウの元女性オーケストラの生存者ファニア・フェヌロンFania Fénelonが1976 年フランスで手記『Sursis pour l’orchestre(邦訳:ファニア歌いなさい)』を出版したことがきっかけであった。彼女の手記はアメリカで映画化されるほど大きな反響を得、アウシュヴィッツのオーケストラの存在を世に知らせる大きな役割を果たした。と同時に、彼女の手記の内容に対して、他の元女性オーケストラ団員たちから、事実が歪曲されていると批判が高まり、真実を伝えなければならないと思った元団員たちは、深い傷を負っているにもかかわらず重い口を徐々に開いていった。このように、フェヌロンの手記と団員たちの証言が食い違うことで、現在はフェヌロンの回想記は個人的な自伝的小説という扱いになっている。
1996年にドイツで出版された女性オーケストラに関する初めての研究書『Das Frauenorchester in Auschwitz(アウシュヴィッツの女性オーケストラ)』では、12人の元女性オーケストラ団員にそれぞれインタビューし、収容所でどのような生活をし、どこでどのような曲を演奏させられていたのかをまとめた調査を記している。彼女たちの証言からフェヌロンの手記に大きな誤りがあることが示され、極限状況下で音楽を奏でなければならなかったオーケストラ団員の日々の活動を「強制労働」と明記している。そして著者は、大衆に影響を及ぼすマスメディアを通してアウシュヴィッツの歴史が間違った方向に伝えられていることへの警鐘を鳴らしている。
<女性オーケストラの影にかくれた男性オーケストラ>
大阪音大の学生だった頃、私は大学図書館で一冊の本を見つけた。それは『死の国の音楽隊』というタイトルだった。本を開くとアウシュヴィッツで音楽を演奏したという手記であったが、その内容の怖さに当時の私はすぐに本を閉じてしまった。しかし、その著者シモン・ラックスという名は胸にひっかかったままであった。それが偶然にも数年後ベルリンでピアノを教えていた生徒を通してつながることになった。その生徒はフンボルト大学博士課程の学生であり、ソルボンヌ大学教授であったラックスの息子の教え子であった。私がアウシュヴィッツに興味を持っていると知った彼は、ラックスの手記のコピーを手渡してくれた。そのコピーがまさに数年前に怖くて読めなかった『死の国の音楽隊』そのものであった。そしてアウシュヴィッツ・ビルケナウにも男性オーケストラがあったことを知った。
楽団長であったシモン・ラックスSzymon Laksは収容所の日常を赤裸々に綴った手記『Musiques d’un autre monde(死の国の音楽隊))』(1948年出版)を遺している。収容所生活や楽団の活動、そして親衛隊との関係をつづっており、その書き方はナチ親衛隊でさえも時代に翻弄された犠牲者のような人間的側面も描かれている。そのことから母国ポーランドでの出版は許可されなかった。そして日本でさえ1974年に出版されたというのに、ドイツでの出版は24年後の1998年であった。
上記の女性オーケストラについての初めての研究書『Das Frauenorchester in Auschwitz』も同じく90年代半ばにドイツで出版された。それらの流れに沿うように2000年あたりからドキュメンタリー番組によってヨーロッパのみならず、アメリカや日本でもアウシュヴィッツの女性オーケストラについて紹介されるに至っている。しかし、男性オーケストラについてはメディアで扱われることはごく少ない。
このように、アウシュヴィッツの楽団や元楽団員たちが公に紹介されるようになるまでには、戦後半世紀の年月を経なければならなかった。
理由として、元団員たちが囚人(被害者)という立場でありながら、自分たちが奏でた音楽が同じ囚人の大量殺戮をスムーズに遂行させる役割の一端を担ったことへの深い罪悪感が先ずあげられるだろう。
アウシュヴィッツを生き延びたイタリア人作家プリーモ・レーヴィは手記『アウシュヴィッツは終わらない(邦訳)』の中で楽団の音楽についてこう語っている。
朝と晩、毎日同じ曲が演奏される。ドイツ人にはみなおなじみのマーチや流行歌だ。私たちの頭にはこうした音楽が深く刻み込まれている。ラーゲル(収容所)のことで、どうしても忘れられない最後のものになるだろう。これはラーゲルの冷徹な狂気を聞きとれるように表現した、ラーゲルの声だ。私たちの人間性をまず破壊し、次いで肉体を徐々にむさぼろうとする他者の決意を示す声なのだ。
彼にとって楽団の奏でる音楽はもはや心理的な拷問であった。「ラーゲルの声」は彼の生涯において、どのような苦痛よりもずっと奥深く入り込んでいたのだ。
参考文献
- プリーモ・レーヴィ、竹山博英訳『アウシュヴィッツは終わらない-あるイタリア人生存者の考察』、2000年、56頁
- Guido Fackler, Des Lagers Stimme. Musik im KZ. Alltag und Häftlingskultur in den Konzentrationslagern 1933 bis 1939. Mit einer Darstellung der weiteren Entwicklung bis 1945 und einer Biblio-/Mediographie. Bremen 2000.
- Juliane Brauer, Musik im Konzentrationslager Sachsenhausen. Berlin 2009.
- Gabriele Knapp, Das Frauenorchester in Auschwitz. Musikalische Zwangsarbeit und ihre Bewältigung. Hamburg 1996.
- Szymon Laks, Musik in Auschwitz. Aus dem Polnischen von Mirka und Karlheinz Machel. Hrsg. und mit einem Nachwort versehen von Andreas Knapp, Düsseldorf 1998. Polnische Orginalausgabe: Szymon Laks, Gry oswiecimski. London 1978.
(2019/11/15)
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藤井稲(Ina Fujii)
大阪音楽大学ピアノ専攻卒業。渡独後ハンス・アイスラー音楽大学ベルリンのピアノ科に入学。フンボルト大学ベルリンに編入し、音楽学と歴史学を学ぶ。同大学マギスター(修士)課程修了。強制収容所の音楽を研究テーマとし、マギスター論文ではアウシュヴィッツの楽団について調査し研究に取り組んだ。現在、府立支援学校音楽科教諭。
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Ina Fujii studierte Klavier und Musikpädagogik im Diplom an der Musikhochschule Osaka. Nach dem Abschluss setzte sie ihr Klavierstudium an der Hochschule für Musik „Hanns Eisler“ zu Berlin fort. Nach einem Jahr wechselte sie zu den Fächern Musikwissenschaft und Geschichte an der Humboldt-Universität zu Berlin. Ihre Magisterarbeit „Musik gegen den Tod: Eine musikwissenschaftliche Untersuchung des Repertoires der Häftlingsorchester aus den Sammlungen des Staatlichen Museums Auschwitz-Birkenau im Kontext ihrer Musikaktivitäten“ schrieb sie.