評論(連載1)|強制収容所の音楽—アウシュヴィッツのオーケストラ—|藤井稲

強制収容所の音楽—アウシュヴィッツのオーケストラ—
Musik im KZ: Die Häftlingsorchester im nationalsozialistischen Konzentrations- und Vernichtungslager Auschwitz-Birkenau

Text & Photos by 藤井稲(Ina Fujii)

【はじめに】

「強制収容所の音楽」ときいて、どんな音楽を想像するだろうか。
学校教育で音楽は重要な情操教育のひとつとして捉えられ、日常生活においても例えば日本では大きな災害が起きたときや一大イベントなどで必ずといってよいほど音楽の力は大いに発揮されている。音楽は、人の心を癒し、勇気づけ、結びつけ、幸せにするものだということを、多くの人々が当然のことと考えているだろう。
本稿のテーマ「強制収容所の音楽」は、このように本来あるべきと考えられる音楽とは真逆の「音楽」について扱う。それは、人々を惑わし、物事の本質から目を反らすことへの手助けとなったもうひとつの音楽史である。

ベルリンの壁1987

ブーヘンヴァルト1987

私がこのテーマに関心を持ったそもそものきっかけは小学生時代である。1987年、両親とともにまだ東西に分かれていた西ドイツに一年間住んでいたことがあった。その年の冬休みに私たち家族は東ドイツへ旅した。東ドイツに入った途端、小学4年生だった私は、西ドイツの人々とまた違う東ドイツの人々の表情を感じとった。華やかなクリスマス・イルミネーションが街を彩っていた西側と比べ、メインストリートを歩いても目を楽しませるお店がなく、活気さえ感じられない街の雰囲気、そして街全体が排気ガスで薄黒くなっているような光景に寂しさと不安を覚えた。そして、この旅の途中で訪れたのが、東ドイツのワイマール市にあるブーヘンヴァルト強制収容所記念館であった。当時使われていた青と白の縦縞模様の囚人服、小さく今にも壊れそうなベッド、もはや食器とは思えないほど変形したスプーンやスープ皿、痩せこけた人々や死体の山の写真。あまりにも私の日常生活とかけ離れたものを目にし、この日は一切食事ができないほどショックを受けた。この日のことは、ずっと忘れられない怖い記憶として私の中に残ってしまった。その時から、私が普段生活している世界の裏側には、こういった恐ろしい世界があったのだ、と思いはじめた。

ザクセンハウゼン歌集

日本の音大を卒業してベルリンでの留学生活をはじめたころ、強烈な記憶として残っていた収容所を今の自分が訪れたらどう感じるのだろうかと思い、ザクセンハウゼン収容所記念館を訪れた。東西統一後の収容所記念館はきれいに整備され、昔のような恐怖感を感じることはなかった。しかしその日、帰る間際に入った売店で思いもよらず歌集を目にしたのだ。「収容所に歌集?」。到底歌う気すら起こらないであろう死と隣り合わせだったこの場所に、どうして歌が存在したのだろう。ページをめくると、どの歌も囚人たちによっていきいきと描かれたイラストで装飾されていた。こんなイラストがどうして描けたのだろう。この歌集をきっかけに、一体だれが、何のために、という驚きと疑問がうまれ、収容所の音楽活動に興味を持ちはじめた。そして、それについて調べていくと、音楽は収容されていた人々にとって生きる糧となった一方で、強制的に歌わされる拷問として使用され、楽団は仲間の死体を担いで労働から帰ってくる人々をまるで茶化すような音楽を奏で、さらに死を目前にした人々を惑わす道具ともなっていたという、私の音楽の概念を覆す事実が、ちょうどドイツで研究され始めていたのだった。

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館

私が初めてアウシュヴィッツを訪れたのは2001年だった。ドイツ語もまだ必要最低限にしか話せなかった留学当初であった。ポーランドに留学した友だちに会いにワルシャワに行ったときだ。ポーランドにいるならアウシュヴィッツへ行ってみたいという好奇心から、一人でワルシャワからまる一日をかけてアウシュヴィッツまで往復した。アウシュヴィッツの最寄駅であるクラクフ駅構内には、当時はホームレスの人が多く、駅前には西の外貨が欲しくてアウシュヴィッツへ行く観光客に片言の英語で声をかけるタクシー運転手がわんさかといた。そのうちの一人にしつこく声をかけられ、しぶしぶタクシーに乗った。この時は今のように携帯電話が普及しておらず、旅先では公衆電話がないと友だちとも連絡が取れなかった。本当にアウシュヴィッツに行けるのかどうか分からないタクシーの中の2時間もの間、私はいつでも逃げ出せるようにドアのそばで固まっていた。どんよりとした空、ポツポツと点在する崩れかけた民家、収容所のすぐそばで牛を使い淡々と畑を耕している人。それが、最初にアウシュヴィッツを訪れたときの印象であった。

ビルケナウ収容所(第二強制収容所)内から
入口に向かって撮影

映画やメディアを通してイメージしていたアウシュヴィッツと、実際に現地で見た光景とはまるでかけ離れていた。ここがアウシュヴィッツだと知らなければ、何十年も放置されたレンガ造りの古い建物や崩れたままの瓦礫、線路と柵があるだけの広大な空き地である。すぐそばには、恐ろしい大虐殺が行われた収容所について知ってか知らずか、ごく普通に生活している住民がいる。あまりの雑然とした周りの風景に、強制収容所という場所に来たというよりも、私たちは歴史の延長線上にいるのだという実感が強烈にわいてきたのであった。

アウシュヴィッツを訪ねた後、ベルリンで生活するにつれ、どんどんと歴史の世界に引き込まれ、音楽大学から離れ、学問として音楽と歴史を学べる総合大学へと進路を変えた。そこで出会った人たちとのつながりから、収容所で音楽を演奏していた生存者の方や研究者と出会い、アウシュヴィッツへの関心が高まり、大学の修論のテーマとした。
アウシュヴィッツにも音楽があった。しかも、そこではいくつものオーケストラがつくられ、日々囚人たちによって演奏されていた。音楽までも収容所の殺戮装置の一つとして考え意図的に設立されていたのだ。こういった音楽をアウシュヴィッツの歴史のなかに付け加えることは重要であり、無視できないものであると私は考える。にもかかわらず、これだけナチス研究が活発なドイツでさえ、このテーマに関しては、タブー視されている印象をもった。
それは、音楽と人間の残虐性を同列に扱うことへの倫理的な躊躇からくるのか。もしくは、収容所の生活にとって音楽の効果・意味はそれほど重要ではないと考える人が多いからか。
私はこのタブー視される理由は何なのかに着目した。

アウシュヴィッツ囚人オーケストラの楽譜

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のアーカイブには200曲を超える囚人オーケストラが使用したとされる楽譜が所蔵されている。だが、これだけの当時の資料があるにも関わらず、まだ誰からも取りあげられず保管されていたのだ。タブー視の一端がここに明らかに示されていよう。これらの楽譜と生存者の手記、そして数少ない研究書をもとに、ドイツでのこれまでの研究、アウシュヴィッツの囚人オーケストラの活動に焦点をあて、団員らの戦後も追いながら、音楽とは何か、というひとつの問いを投げかけたい。

 

〘目次〙

【はじめに】

1.ドイツにおける「強制収容所の音楽」についての研究

2. アウシュヴィッツのオーケストラ

2-1) アウシュヴィッツにおけるオーケストラ設立

2-2) オーケストラの指揮者

-アルマ・ロゼ(1906-1944)とシモン・ラックス(1901-1983)‐

2-3) アウシュヴィッツにおけるオーケストラの活動内容と団員たちの生活

3.ポーランド国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館所蔵の楽譜

4.オーケストラ団員の戦後

【おわりに】

※本稿はドイツ語版の論文”Musik gegen den Tod”を元に日本語版に改訂したものである。

(2019/10/15)

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藤井稲(Ina Fujii)
大阪音楽大学ピアノ専攻卒業。渡独後ハンス・アイスラー音楽大学ベルリンのピアノ科に入学。フンボルト大学ベルリンに編入し、音楽学と歴史学を学ぶ。同大学マギスター(修士)課程修了。強制収容所の音楽を研究テーマとし、マギスター論文ではアウシュヴィッツの楽団について調査し研究に取り組んだ。現在、府立支援学校音楽科教諭。

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Ina Fujii studierte Klavier und Musikpädagogik im Diplom an der Musikhochschule Osaka. Nach dem Abschluss setzte sie ihr Klavierstudium an der Hochschule für Musik Hanns Eisler zu Berlin fort. Nach einem Jahr wechselte sie zu den Fächern Musikwissenschaft und Geschichte an der Humboldt-Universität zu Berlin. Ihre Magisterarbeit Musik gegen den Tod: Eine musikwissenschaftliche Untersuchung des Repertoires der Häftlingsorchester aus den Sammlungen des Staatlichen Museums Auschwitz-Birkenau im Kontext ihrer Musikaktivitäten schrieb sie