カデンツァ|批評の周辺〜ひるまず、おごらず、つるまず〜|丘山万里子

批評の周辺〜ひるまず、おごらず、つるまず〜

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

毎年10月は創刊時の初心に戻り「批評」について書くことにしているが、4年前に見えていた景色と今は随分違う。これは私が世間の風(批評への風ではない)にあたらずこれまでのうのうと生きてきた、ということだと解する。
が同時に、「世間知らず」を遅まきながら自覚、と先達に漏らしたら「それでいいんじゃない?」と言われ、それも一つだ、と思ったりもする。
どだい、人の知るうるものなど手の届く範囲に過ぎぬ、それすら虚妄、というのが私の信条ゆえ、今さらきょろきょろしたところでたかがしれよう。それゆえ、一つ一つの出会いは大切に、と心がけてはいるが。
今回は、批評の周辺、をうろついてみる。

8 月下旬に行われたサントリー芸術財団50周年記念シンポジウム《日本の音楽界の50年とこれから》。日本のクラシック音楽評論・学者の第一線そろい踏みである(敬称略)。

内容は以下。
【講演】渡辺裕、片山杜秀
【ラウンドテーブル】『日本の音楽界の50年〜受け手、創り手、繋ぎ手』
スピーカー:白石美雪、長木誠司、沼野雄司、野々村禎彦で各短い発表にディスカッションの構成。発表はグラフや表などを映しての説明原稿通読に近く、質問はスマホで受付(電波が立たぬアクシデントも)、討論テーマ<50年の意味〜何が変わったのか、変わらなかったのか><将来への展望>を語る時間もなく30分超過のトータル3時間半であった。
印象に残った事柄のみ挙げておく。

渡辺:『1969年以前の日本の音楽界』
1964年東京オリンピックでの音楽家たちの振る舞いに戦前・戦中・戦後の連続と、新聞・進駐軍放送を含む放送メディアによる主導を指摘、とりわけ開会式天皇入場時に黛敏郎の電子音楽が流れたのを興味深く聞いた。どうせなら今回のオリンピックの動向まで言及して欲しかったが。

片山:『1969年以降の日本の音楽界』
3人の指揮者をあげ以下にまとめてみせた(他に演奏家、作曲家などのビデオと共にそれぞれ3人ずつの分類もなかなか面白い)。
1. 広上淳一:いかに大衆に愛され、味方を増やすか路線のポピュリズム系
2. 山田和樹:東京混声合唱団を例に引きつつプロとアマの力が伯仲、その境界が消えつつあるとの危機意識系
3. 大野和士:わかる人にはわかるの前衛主義、インテリ・エリート系
なお、一柳慧の言葉として紹介された「ジョン・ケージから学んだのは人権」は示唆に富んだものと聞いた。
片山の著作なども眺めつつ思うに、彼は音楽界のミニ松岡正剛と言えようか。

沼野:『トレンドなき時代?——社会における“現代音楽”の輪郭』
武満の後に来るのは誰か。坂本龍一か久石譲では、との言になるほど、と。
大型輸入 CD店舗レイアウトの激変活写(どんどん隅に追いやられるクラシック・現代音楽)、いかにも沼野世代のヴィヴィッドな享受の実感が伝わった。
一方、進化するテクノロジーによる作曲・記譜の変化(楽譜作成ソフト)と作品のアルバム化(藤倉大ら)を指摘。専門性と権威の崩壊にも言及。

過去から現在を読み未来を予見など、激変する世界状況にもはや不可能にしても、少なくとも今が抱え未来に及ぼすだろう問題についての明確な発言がほとんど出なかったのは残念の他ない。

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8月末、急な案内で出かけてみた某マネジメント社開催のSUMMER PARTY。「未来を考えヨ!」の惹句に、サントリーのシンポジウムで聞けなかった「未来」が話し合われるかも、と、原宿へ。
ライブ&トークセッション(4時間半)の、特にトークが<音楽×学校の未来><音楽×CX(顧客体験)の未来><音楽×プラットフォームの未来><音楽×アーティストの未来><音楽×オーケストラの未来>と並び、話者も藝大教授、イープラスのプロデューサー、兵庫県立芸術文化センター事業部長、オケの企画制作担当などなど制作現場に生きるトップの多彩な布陣であれば、相当面白いのではと期待したのだ。
が、狭いフリースペースに人がぎゅう詰め、トークとライブは重なり1F 2Fの階段を右往左往、ほぼ立ちっぱなしで傾聴かつ背後には軽食、ヨーヨー釣りなどが並ぶまさにパーティーで、「未来を聞こう!」と気合を入れすぎた自分が笑えた。

最初のトーク<学校の未来>が一番聞きたかったゆえ、押し分けかき分け、話者4人の背を眺められる階段に座しての50分。以下、パンフの説明。
「これからの未来を創り出す、次代を担うこどもたちにとって、学校はどうあるべきなのか。“早期教育プロジェクト”や、東大、順天堂、慶応医学部などと連携して進めているAMS(Arts meet Science)プロジェクトに取り組む東京藝術大学。カルチュア・コンビニエンス・クラブが挑戦する従来の”知識詰め込み型”ではない21世紀型の教育を試みるT-KIDSなど、試行錯誤を重ねアップテートする学校の未来を考える。」
私の周りには0歳から高校生まで、AI時代に突入、見当もつかぬ未来を生きねばならぬ子らが散らばっており、とりわけ幼児を取り巻く環境の激変(スマホ育児からプログラミング学習、バイリンガル教育にいたるまで)と教育経済格差に慄然とする日々であるから、教育、もしくは新たな教育ビジネスの目指すところを知りたくもあった(配布プリントに「世界トップアーティストの戦略的育成」って教育機関での人材育成に「戦略」を用いる言語感覚、私には理解不能)。
高度成長と期を一にする音楽早期教育とその果実に群がり消費に走ったバブル期から今日に至るまで、音大のあり方も演奏家育成も活動も、いやそもそも日本の教育そのものがどうあるべきか問われている中で何が語られるか。なぁんて・・・トークを聞く人たちの背後でわやわや人々雑談飲食であればなんだか。
ただ、実感したことが二つ。

一段高所でなく同一平面スペースでのフランクな語り口や呼びかけ(内容はともあれ)に聴衆(若い人が多かった)は熱心に聞き入っており、いわゆる業界人ではない人たち(たぶん)と直に向き合うセッティングに、もはや従来メディアは不要の時代とはっきり思ったこと。
享受層と直に関わる場を設定、SNSでどんどん情報拡散させてゆけば、既存メディア、ジャーナリズムなど非効率。新たな音楽ビジネスに専門性も権威もいらない。専門性・権威に依拠する既存メディアの「プロモーション」としての使い勝手は有効性を失うだろう。
いわんや批評をや。

演奏家の意識について。
私は人ごみに疲弊、アーティストたちの未来についての生の声を聞かずに退散したが、コンクールが必ずしもステイタスとはならなくなった現代、彼らがどうやって活動、収入を得てゆくかの問い(パンフより抜粋)は切実と思う。
瞥見したところ、出演17人各20分、入れ替わりたちかわりのライブでは歓声が上がり、奏者はこのごった返しを忙しく行き来しつつ楽しそうであった。
至近距離の聞き手の直の反応に興奮の面持ちで、ホールやサロンとも異なる何か強い刺激を受けている風。こういうライブをあちこちで数こなしてゆくなら、演奏家の意識もスタイルも間違いなく変わるだろう。

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シンポジウム&パーティーという2つの「場」から私が学んだことは、まだ整理できていない。が、その背後に見えるのは、つまるところ国の「文化行政」とその間で動く「ビジネス」で、「金」だ、くらいはわかる。
シンポジウムでの、例えば日本の創作オペラの「盛り下がり」話(長木)は行政の補助・助成削減(メセナも含む)を示唆するし、それはあいちトリエンナーレの補助金不交付にも明らかだ(いずれ音楽だって・・・)。
昔、文化庁の仕事(青少年育成だか文化振興だか)を仰せつかったが、渡独を控え、会議に一度も出ることなく辞退したゆえ、国の文化行政のなんたるか、それに関わることの意義・意味も知らずに来たし、偏屈な批評家で業界人(音楽関係者)とは関わらずに来たから、動く金のことなどわからぬ。
片山分類に従い、シンポジウムを「専門性・権威・エリート」系、原宿パーティーを「一般愛されポピュリズム」系(プロ・アマ消失の演奏家も含む)とくくることも可能だろう。が、どちらにしても、金の流通分配の支配・管理を基とするものであることに変わりない。
明治以降築かれた経済の既存システムが、テクノロジーの凄まじい進化によって改変を迫られている今日、音楽市場・メディアもまた新たなシステム構築を模索せねばなるまい。先端技術に群がる金と人ーー相も変わらぬ消費社会と商業主義ね、など腕組み笑うだけではいかんだろう・・・。
とまあ、批評の周辺をうろついての現段階で今、私が言えるのはここまで。この先はいずれまた。

原宿パーティー主催の統帥がトークで某書店コンシェルジュを賞賛した。彼の求める関連本の全てを頭に入れ(既読し)適切なアドヴァイスと提案を行ったと。だが、この種のサービス(コンシェルジュorソムリエ)を個人データ学習 AIが代行、コンサート入場だって QRコードで「ピッ」になる日はすぐそこだ(ぴあでチケット買えばじゃんじゃん届くおすすめ公演を見よ)。
「音楽と人間の未来図」を私たちはどう描きたいのか。

本誌責任者となり、批評メディアとしての立ち方を、自分たちの自己満足で終わらせるのは如何なものか、くらいの意識は持つに至った4年と正直に言う。
私に世間は見えない。音楽と人間の未来図の中での「批評」なんてわからない。
「批評」の有用性を市場原理の中で位置付けたいとも思わぬし、データからニーズを読み取りそれに沿った誌面作りで影響力を拡大、などの野心もない。
けれど、通うコンサートでの真摯な音楽に力をもらう、それだけはしっかりこの手に握っている。その手から飛び立つ言葉たちを、私は手放さないし、大切にしたい。
加えて、世界で日本で何が起き、どうなっているのかを知ろうと努め、その中で自分の位置は場所は、の自問を怠りたくない。

先日ふと手にした昔の雑誌にジョンとヨーコの発言があり「相手を倒そうとする人間は倒したら自分がその位置につこうとする、そういう闘いを自分たちはしない」。同じ土俵に乗ること自体が、すでに同列の意識でしかないと。
ジョンは銃弾に倒れたが、ヨーコは今も発信を続ける。
それが表現者の矜持であり、覚悟というものだろう。
批評もまた表現であり、表現でしかない。
学でもビジネスでもなく、コンシェルジュでもソムリエでもなく、「書く」欲動やみがたい表現者の一行為、それに尽きると私は考える。

批評の周辺は、いろいろだ。
で、最近の私の心得3つ。
ひるまず、おごらず、つるまず。

最後に。
資金もスポンサーもない本誌が批評メディアとしてこれまで立ってこれたのは、読者と周囲の方々の理解があってのことだ。それも、しみじみ、わかる。
これは、「つるまず」とは違う話だ。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。

(2019/10/15)