自動的な家畜の〈情〉――あいちトリエンナーレ2019〈情の時代〉を観て|齋藤俊夫

自動的な家畜の〈情〉――あいちトリエンナーレ2019〈情の時代〉を観て
Automatic Domesticated Passsion――Aichi TRIENNALE 2019 Taming Y/Our Passion

Text & Photos by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

今回のトリエンナーレ芸術監督・津田大介による〈情の時代〉のコンセプト を読んでも、ジャーゴンに満ちた文章の本意は判然としなかった。だが、実際に足を運んで体験し考察した所、〈情の時代〉という漠としたコンセプトが現代の人間のある種の真実を射抜いていたと知った。

筆者があいちトリエンナーレ2019に行ったのは9月18日から19日、都合により愛知芸術文化センターと名古屋市美術館のみであることを初めにお断りしておく。

ジェームズ・ブライドル『Drone Shadow』

通常地下鉄から直結した地下道で直接愛知芸術文化センターに行くようだが(帰路はその道を使った)、筆者は芸術文化センターの正面玄関から入った。玄関前に白い線で何か大きなシルエットが描かれている。ジェームズ・ブライドルの『Drone Shadow』、実在する無人偵察機・RQ-4グローバルホークの実物大シルエットであった。この時は特に本作に何も感じなかった。

センター内に入る。国際現代美術展の10階から。まず目に入るのは展示を拒否・中止あるいは改めた14名(9月18日時点)による『表現の自由を守る 2019年8月12日』の声明の張り紙。なるほど、とだけ思いつつ展示を見始めた。

14名による『表現の自由を守る』の声明文

先の14名の内の1人、田中功起の、インスタレーション作品の部屋の戸を半閉じにして立入禁止にした〈展示〉を目にし、次第に筆者の頭の中で何かが動き出した。

田中功起の半閉じの「展示」

今村洋平『peak3601』

今村洋平『tsurugi』

10階、8階、地下2階の展示で、美術品として一番面白く感じられたのはシルクスクリーンを何千回何万回と重ね塗りすることによって立体作品を作ってしまった今村洋平作品。ミクロン単位の厚さでも重ねれば立体になるというのはわかるが、実際にそれを実現してしまうその根気と、実在する作品の迫力に感嘆した。
先月号のPick Up (19/9/15)|あいちトリエンナーレ2019|丘山万里子 でも言及されたヘザー・デューイ=ハグボーグのDNAサンプリングを主題とした作品には筆者も恐怖した。

しかし、〈情の時代〉というテーマが筆者にはなかなかつかめず、前掲の津田のコンセプトにも「感覚によっておこる心の動き(→感情、情動)」、「本当のこと・本当の姿(→実情、情報)」、「人情・思いやり(→なさけ)」という〈情〉の多義性が列挙されていてさらにわからない。これではなんでも〈情〉に入ってしまうのではないか?

しばらくしてひらめいたのは芸術文化センター入口で最初に見たジェームズ・ブライドル作品であった。あの無人偵察機に人間の〈感情〉〈人情〉はない。あるのは〈情報〉だけである。しかもそれが〈実情〉であるかどうかはわからない。〈感情〉ある人間によってインプットされた命令にしたがってただひたすらに〈無情〉に〈情報〉を収集する不可視の存在。それを可視化したのがあの作品だったのだ。そしてその収集された〈情報〉を基に人間が動く、あるいは動かされる。
さらに、今回のブライドル作品は偵察機であったが、このドローンが無人自動攻撃機であったならばどうなるであろうか。地上の人間は粛々と〈情報〉に従って〈無情〉に生死を決定される。

筆者はこのドローンがある人物に似ていることに気付いた。粛々と事務的にユダヤ人絶滅を実行したアイヒマンである。ただ、命令に従って人間を人間と認識することすらせずに処理し続けた人間、それが軍事技術によって人間を必要としない究極的な形に至ったのがこのドローンではないか?〈情報〉を収集しながらも、そこに〈感情に基づく意味〉を見出すことが不可能な純粋機械に我々は全てを委ねている……。いや、今、筆者が原稿を書いているパソコンの向こうにすら何が繋がっているのか……。

8階には『表現の不自由展・その後』の閉鎖された扉があった。測った所その幅は約2.5メートル。こんな小さな扉の向こうに等身大の少女像を展示することに憤り、テロをもほのめかす大規模集団抗議を実行した人々。「日本国民の心を踏みにじる行為だ」との河村名古屋市長の発言、臆面もなくそれに乗じ、「事後検閲」に踏み切った萩生田文部科学相ら。彼ら/彼女らの〈情〉とは?

官民一体となって表現の自由を犯した彼ら/彼女らはパラノイア的に自己を被害者として、自己の外に広がる世界と他者を加害者として認識する。〈情〉の時代において彼ら/彼女らの〈感情〉は攻撃的に、〈人情〉は排他的・利己的になり、差別主義と一体となった歴史修正主義の〈情報〉を受け入れる。その攻撃的な被害妄想はヒトラー的であり、自らの暴力を〈正当防衛〉として正当化する。……あの世界大戦と同じように……。

彼ら/彼女らの〈情〉――感情と情報の認識方法――はヒトラー的であり、かつアイヒマン的である。何かが彼ら/彼女らの内外にいるヒトラー的検閲コードに触れれば、彼ら/彼女らはアイヒマンのごとく、ドローンのごとく自動的に感情を動員してその何かを攻撃する。ヒトラー的彼ら/彼女らは目を開けていても自らが常に攻撃に曝されている妄想・願望しか見えない。アイヒマン的彼ら/彼女らは実情に目をつぶってヒトラー的検閲コードのままに自動的に憤る。
そして、〈情報〉を操るゲッベルスは既存のマスコミ、出版、広告宣伝だけでなく、インターネット上のSNSなどによって遍在している。
ヒトラーとアイヒマンとゲッベルスは同一の人間・集団としてこの〈情の時代〉に実在している。彼ら/彼女らは皆一人一人がヒトラーでありアイヒマンでありかつゲッベルスである。

つまるところ、今やどこにも〈自由な感情〉などないのだ。〈人情〉なき純粋機械と、〈情報〉によって動かされる〈感情〉に基づいて生きるドローンが群れを成すこの〈情の時代〉には。

翌19日に名古屋市美術館で見た藤井光『無情』は〈かつての情の時代〉であった1940年代前半、台湾の人々を日本人化する国民道場の映像と、現代の人間にその道場と同じ動作をさせる映像を1つの部屋で同期させて映したもの(9月22日の時点で、藤井はこの展示を一時中止した)。いかにこの時代の〈情〉が作られ、動員されたか、されえたかが不気味な感覚として実感できた。

しかし、それでも人間は動物ではない。人間は、たとえ守りたい伝統や理念が異なっても、合理的な選択ではなくても、困難に直面している他者に対し、とっさに手を差しのべ、連帯することができる生き物である。いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。(津田大介の「コンセプト」より抜粋)

津田の甘さはまさにここにあったと言うべきであろう。「人間は動物ではない」はずだったのだが、今や彼ら/彼女らは自らを家畜化したのだ。「いま人類が直面している問題の原因」たる〈情〉、彼ら/彼女らが醸成する、命令者に盲従する家畜の全体主義的〈情〉は、少なくとも今回、津田が「連帯」の希望をかけた〈情〉を打ち破って見せたのである。

今回のトリエンナーレにおいて感じるべき〈情〉があるとすれば、レジーナ・ホセ・ガリンドの『LA FESTA #latinosinjapan』の、元々はラテンにルーツを持つ日本在住の人々の饗宴を展示するはずだったのが、ゴミ置き場のように無残な姿に変えられた展示、モニカ・メイヤー『The Clothesline』の、女性の声なき声を集めた紙を全て散らしてしまった展示、それらにこめられた〈怒りの情〉であろう。そこには〈自動的に動員される家畜的感情〉ではない〈生きる人間の感情〉が逆説的に表現されていた。

レジーナ・ホセ・ガリンド『LA FESTA #latinosinjapan』

モニカ・メイヤー『The Clothesline』

最後に、田中功起の半閉じになった部屋の写真と、ミリアム・カーンのその名も『検閲』という名の絵画の見た目が筆者の中で共鳴したこと、ミリアム・カーンの『笑わなければ』という絵画がどうしても笑いたくて笑っているのではないように感じたことを記して本論を終わりとしたい。

ミリアム・カーン『検閲』

ミリアム・カーン『笑わなければ』

(追記:10月1日付けの東京新聞にて、「表現の不自由展・その後」が10月6~8日に再開することで芸術祭実行委員会と不自由展実行委が9月30日に合意したとの報があった)

(再追記:10月8日付けの東京新聞にて、7日に愛知県大村知事が「表現の不自由展・その後」を10月8日午後に再開すると正式表明し、抗議の展示中止や変更をした作家たちも元通りの展示にするとの報があった)

(2019/10/15)