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特別寄稿|石と年月の重み〜ザルツブルク音楽祭2019から|能登原由美

石と年月の重み〜ザルツブルク音楽祭2019から

Text & Photos by 能登原由美(Yumi Notohara)

ザルツブルクをほぼ20年ぶりに訪れた。前回は2日程度のごく短い滞在で、モーツァルトの生家やホーエンザルツブルク城など、まさに当地の観光名所を駆け足で回った程度だった。今回は、夏の音楽祭の代表とも言えるザルツブルク音楽祭を見るための旅。1週間ほど滞在することにした。それにしても、ザルツブルクがこれほど石と縁の深い街だったとは。メイン会場となる祝祭劇場の裏手に聳える石壁の、その威容にまずは圧倒されてしまう。

 

欲を張って6つの公演に出かけることにした。日本からだと次にいつ参加できるかわからない。それに、注目されるオペラなど人気公演のチケットは早々に売れてしまうらしく、行くことを決めた時にはすでに手に入らないものもあった。空路はるばる出かけるなら、悔いの残らないようにしたい。

とはいえ、オペラで今回観ることができたのは、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》だけ。こちらは昨年上演されて話題を集め、すでにDVDもリリースされている。けれども、あらかじめ情報を入れてしまうとその「枠」の中に自分の体験も押し込められてしまう。いつものように、敢えて「無知」のままに臨む。

© SF/Ruth Walz

会場はフェルゼンライトシューレ。舞台の背面は全体が石の壁だが、さらに舞台天井が開くと同時に、建物裏の岩壁が夏の残照のもとに一瞬姿を現した。ザルツブルクについた直後に感じた石と岩の物言わぬ威圧感に、再び襲われる。

この石、そのものが、ザルツブルクで制作されたこの上演において大きな意味をもっていることに気づいたのはその後のことだ。冒頭では音楽に先立ち、紗幕に浮かび上がった「TE SAXA LOQUUNTUR」という文言の、「LOQUUNTUR」の1語だけが上下に裂かれるというパフォーマンスが入る。それはおそらく、ロメオ・カステルッチによって演出されたこの《サロメ》に通貫するテーマなのであろう。何かしらの金言と思しきその言葉は、「石は汝を語る」といった意味であることを後でパンフレットから学ぶとともに、劇場背後の丘陵を貫くトンネルの両側に刻まれた文字であることにも後日気づいた。

それにしても、「語る」という意味をもつという「LOQUUNTUR」、その1語を切り裂くことで何を訴えようとしたのだろう。

それを読み解くことが観る側に課せられた課題なのか、随所に象徴的な記号が散りばめられていく。例えば、白と赤と黒を基調とした色彩や小道具。サロメが纏う白いドレスの臀部に塗られた赤い染み同様、処女性とその喪失、さらには死を暗示するものとしてこちらに伝わってくる。確かに獣姦や死体蒐集癖などをも匂わせるその演出は一見衝撃的だけれども、そもそも切り落とされた首に口づけをする主人公の倒錯した性愛を色付けるものとしては、不自然には感じられない。

© SF/Ruth Walz

だが、それが決して「悪趣味」に陥らないのはやはり音楽のためであろう。サロメを歌ったアスミク・グリゴリアンもヨカナーン役のガボール・ブレッツも非常に安定感のある歌唱で、激しい感情表現といえども理性的な制御のもとにあることは明らかだ。あるいはナラボート(ユリアン・プレガルディエン)や、ヘロデ(ジョン・ダザック)とヘロディアス(アンナ・マリア・チウリ)、ユダヤ、ナザレ人達の重唱など、葛藤と調和の音の駆け引きが実に心地よい。どれほど「目」を奪う効果が施されようが、それらに「耳」が凌駕されることは決してないのである。

もちろんそれは、フランツ・ウェルザー=メスト指揮によるウィーン・フィルの存在なしではあり得なかったに違いない。彼らの演奏は、今回ザルツブルクで聞いた公演の中でも随一であった。歌手と舞台を下から支えながらも、それと気づかせることなく我々の意識までも牽引していく。まさに舞台と音楽、観客を含めたホール全体を一体化させる音楽であった。

さて、上下に切り裂かれた「LOQUUNTUR=語る」の意味、それはこのオペラで何を示していたのであろうか。だが、この答えを探しては見たものの、どうしても別の考えが頭に浮かんでくる。というのも、「石は汝を語る」とは、そもそもこの石に覆われたザルツブルクの街そのものに投げかけられたものだ。「語る」を切り裂くとはその否定、つまり「語らない」ことを意味するのかもしれない。が、そもそも石という何千、何万年もの時をかけて形成された存在の内部に、何かを語る、あるいは語らないという余地はあるのだろうか。私には、ただその硬く閉ざされた石とその年月の重みだけがぐっとのしかかってくるように思われる。そこに言葉が入り込む隙など、そもそも無い、のではないか。

© SF/Marco Borrelli

同様に言葉を遮る重みを、今回の音楽祭では2人の大家の音楽に感じた。内田光子とヘルベルト・ブロムシュテット。前者はシューベルトの最後のピアノ・ソナタ3曲を、後者は若い音楽家集団、グスタフ・マーラー・ユーゲント管を率いてブルックナーの交響曲第6番を演奏した。

両者ともに、作曲家の書いた音符を丹念に拾い上げるが、そこに彼ら自身が長年にわたって積み重ねてきた音楽が厚い層をなし、やはり言葉の入る隙など無い。ただ、その凝縮された時空間が体中に広がってくるだけだ。別の日に聴いたベルリン・フィルのキリル・ペトレンコやコパチンスカヤも、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管のアンドリス・ネルソンスも、いずれも聴衆を熱狂させる術を十分心得ているのだけれども、その内部にまで耳を傾ける気には至らなかった。

なお、先の《サロメ》ではその性的倒錯を描写するものとして「馬」の存在が暗示されるが、この劇場はその名称「フェルゼンライトシューレ=岩壁の馬術学校」が示すように、元々馬場であったところに建てられたものらしい*。馬と人間の関わりの長い歴史については私の手の及ぶところではないが、ここでもまた、その蓄積された年月の重み、その上に姿を表す音楽の存在を感じずにはいられなかった。劇場裏のメンヒスベルクの丘を穿つトンネルを通り、その横に建つ建物(こちらは劇場とは異なる)に描かれた馬を横目に毎日通ったことも、こうした私の聴取に大きく影響しているのかもしれないが。

 

*音楽祭の歴史も含めてザルツブルクの歴史を知る上では、6月に刊行されたばかりの『物語 オーストリアの歴史』(山之内克子著、中公新書)が大いに参考になった。

                                        (2019/9/15)