アーヴィン・アルディッティ 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル|西村紗知

アーヴィン・アルディッティ 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル
Irvine Arditti Solo Violin Recital

2019年7月7日 会場 静岡音楽館AOIホール
2019/7/7 Concert Hall Shizuoka
Reviewed by 西村紗知 (Sachi Nishimura)
Photos by 日置真光/写真提供:静岡音楽館AOI

<演奏>        →foreign language
アーヴィン・アルディッティ(ヴァイオリン)

<曲目>
B.バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz.117
L.べリオ:セクエンツァVIII
P.ブーレーズ:アンセムI
B.ファーニホウ:インテルメディオ・アラ・チャッコーナ
B.ファーニホウ:見えない色彩
S.シャリーノ:6つのカプリッチョ
アンコール曲
J.ケージ:8つのウィスカス より

 

アーヴィン・アルディッティというヴァイオリニストは、今日においてもっともふさわしい仮象の姿をしている。陳腐な幻想も奇抜な身振りも必要としないこの特異な相貌は、あらゆる分け隔ての思考を聴衆から奪い取る。どこまでが楽器で、どこからが書かれた作品で、一体全体何が起こっているのか、わからず仕舞いの聴衆は「圧倒的」などという言葉すら失う。嘘も煌めきも要らないのに現実以上で居られる、境目なき相貌。アルディッティが楽器であり、作品であり、そして音楽である。おまけに、いくばくかの茶目っ気。
彼はむしろ反対に、「そんなものは嘘や煌めきであるに過ぎない」という宣告を、他の演奏者に与えるくらいだ。こうである以外にはありえないという、本当さ具合ったらない。しかしながらそれこそ、何かにつけて陳腐であるという判断を下されがちな時代における、一番有効な仮象の在り方である。

これらが一旦譜面に書きつけられた音の数々であるということを聴衆に忘れさせるのに、バルトークの無伴奏ソナタはうってつけである。人によってはフィドル的とも言うであろうこの作品は、なんにせよヴァイオリニストの主体性を強く問いただす。はてさて、語りなのか歌なのか、それとも構築的か……などと、どう演奏するのか思いをめぐらせていたら、不意打ちのようなさばけたアインザッツに少し面食らってしまった。しかしながらそれから展開されるのは、粗雑な演奏とは程遠い。大胆でありつつ繊細、さながら水墨画のような、濃淡豊かな線の妙である。

「無」から「有」を紡ぎ出していくような、ベリオの〈セクエンツァVIII〉。ここでは落ち着いて音の論理を聴衆は楽しんでいられる。ラとシの二つの音がぶつかり合い、これが酵母となって音楽ができあがっていく。どれほどいびつに膨れ上がっても、中心にはその二つの音がきちんと存在している。
これに対して、「有」をいかにせんと悩み続けるのが、ブーレーズの〈アンセムI〉という作品の性格なのだろうか。スタッカート付きの駆け上がるパッセージ、トリル、グリッサンド等、特定のパーツが組み合わさってできた一定の長さの部分が、それらのパーツの組み合わせを微妙に変えながら、提示され続ける。特に表情もなく淡々と出来事が過ぎ去っていく。なにかの実験を見せられているようだ。

休憩中、舞台にセッティングされる横一列にずらっと並べられた譜面台。ファーニホウ作品のお出ましである。
微細な断片により、全てのフレームがサブリミナル効果のそれであるような映像を織りなす、ファーニホウの〈インテルメディオ・アラ・チャッコーナ〉。いろんな意味で余地がない。1フレームでも抜け落ちたらもう全て台無し。解釈という営みが許容されるようにも思えない。この作品へ通じる道は一本のみ、唯一アルディッティだけが知る道なのだろう。
他方「見えない色彩」の方には、メロディーがある。ただメロディーがある方が、かえってよくわからない。不思議である。メロディーとはなんのことだったろう。微細な断片となりコマ送りの力動性を真似るかのような音の群れに、不意にメロディーが差し挟まると、これが聴覚なのか視覚なのか、区別がつかなくなってしまう。
プログラムの最後は、シャリーノの《6つのカプリッチョ》。これはひょっとしたら、もはや音楽ではないのかもしれない。ヴァイオリンの駒の近くを弓が往復運動している。光の糸でレース生地がひたすら織られていくのを見物するかのようである。もっともこれは、聴覚でとらえるレース生地であるから、織られたそばからたちどころに消えていくので、実際のレースよりずっとはかない。

ところで、ファーニホウという作曲家には「新しい複雑性」というキャッチフレーズのようなものがあるのだけれど、これはなにも、音符がびっしり譜面に書いてある、ということを言うのではないのだそう。それでは「新しい複雑性」とは何のことだ、と言いたくなるが、おそらく「びっしり音符が書かれているからといって複雑性に到達できるわけではなかったのだ」という、それ以前の創作傾向をふまえた返答が返ってくることだろう。なるほど、無造作に音が鳴り響いていると感じるや否や、人は音を聞くことをおざなりにしてしまう。
聴取を要請するならば、音の連関が必要であろう。「新しい複雑性」は音の連関の獲得の方へと進んでいったのだ。「新しい複雑性」とは、トータル・セリエリスムが葬り去った音の連関に今一度向き合う創作態度である、とも言えそうに思う。
ああそうか、連関だ。圧倒的な連関。アルディッティの身体を通して連関を獲得し、作品たちは仮象し出す。

(2019/8/15)


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<Artist>
Irvine Arditti(Vln.)

<Program>
B. Bartók:Sonata for Solo Violin, Sz. 117
L. Berio:Sequenza VIII
P. Boulez:Anthèmes I
B. Ferneyhough : Intermedio alla ciaccona
B. Ferneyhough : Unsichtbare Farben
S. Sciarrino : 6 Capricci
(encore)
J. Cage:8 Whiskus