音楽にかまけている|ドルトムントの《エクナトン》とドレスデンの《ユグノー教徒》|長木誠司
ドルトムントの《エクナトン》とドレスデンの《ユグノー教徒》
Echnaton in Dortmund und Die Hugenotten in Dresden
text by 長木誠司(Seiji Choki)
ドルトムントの市立歌劇場はドイツの中規模劇場のひとつだが、このクラスの劇場でもふつう近現代作品を新演出によって年に1~2演目は制作している。なかでもドルトムントはかなり頑張っている方で、シーズン・プログラム冊子がえらく充実しているし、来シーズンの演目内容もさまざまな時代・スタイルの作品を採り上げて意欲的なものになっている。
今シーズンは、日本の菅尾友の演出で2月に《トゥーランドット》を新制作していたのだが、5月24日にはフィリップ・グラスの1984年の作《エクナトン(アクナーテン)》をジュゼッペ・スポータの新演出で舞台にかけた。このところグラスやアダムズのミニマル・オペラがドイツのこうした中規模劇場で上演されることが多くなってきた。現代作曲家のなかでも一定の人気があるひとたちだし、ことにグラスのオペラは作品数も上演頻度も現代オペラのなかでは他を圧倒しているので、劇場側にとってはプログラムに変化が付けられ、意欲のほどを誇示しながら、さほど客入りを懸念する冒険にもならないから、採り上げやすいのではないかと思う。別の新制作だが、《エクナトン》は来シーズンのメトのラインナップにも入っており(11月メト初演)、そのうちライブビューイングでも観られるようになるだろう。
ドイツのプロテスタント教会の全国大会ともいうべき「協会の日Kirchentag」として街中が賑わい、多くの教会内での祈祷やシンポジウム、音楽、演劇、ダンスを含む文化プログラムが各種の会場で朝から晩まで延々と続いて、宗教色を考えなければ街全体がドルトムントや近隣の街の市民を巻きこんだ一種のテーマパークになったような6月21日に、この《エクナトン》公演を観る。市内の他の催し同様、この歌劇場における2日連続した《エクナトン》の上演もすべてこの「教会の日」の枠内の催しに数え入れられており、歌劇場は箱ごと買われてしまってチケット販売も劇場側では行えない。言ってみればオリンピックか万博が、もっと分かりやすく喩えるなら全日本仏教会か創価学会の大会が新国立劇場の演目を劇場ごと2日分丸買いしたようなものなので、日本から来た人間には信じられない、どこかとんでもないやり方に映る。
シュトゥットガルト州立歌劇場で世界初演されたこともあって、ドイツにもなじみ深いとも言える《エクナトン》(ドイツ語では当然「エヒナトン」と発音されていた)。物語は古代エジプトのアメンホテプⅣ世にまつわるもので、自身を「エクナトン」と命名し、その名の下でさまざまな急進的改革を行った王の生涯を描く。ことにテーベの守護神であったアモン信仰を廃して新たにアトン信仰を導き入れ、それまで権勢を誇っていた司祭等を排除したものの、次第に民衆の心は彼から離れ、かつての権力者たちからの反撃を受け、王の一族は葬り去られてもとの秩序が戻るという盛衰の物語である。
物語そのものにはあまり屈折がなく、音楽のスタイルに似て単純とも言えるが、テクストは古代エジプト語で書かれ歌われる(ドイツ語と英語の字幕が付いていた)。また、進行役の語り手がいるが、これはドイツでの上演の場合ドイツ語で行われる。ヴァイルの《マハゴニー》やストラヴィンスキーの《エディプス王》に似たオペラの形態である。
グラスの狙いはストーリーの文学的な価値を追うよりも、《アインシュタイン》以来試みられていたオペラの新たでスペクタクルなドラマトゥルギーの開拓であり、ここではダンスと一体化した新たな視覚的舞台が展開されている。そもそも歌手の動きはほとんどなく、棒立ち状態だが(それも《エディプス王》に似ている)、今回のドルトムントの上演でも、緩急は変わるもののほとんど時間の停滞し続ける音楽を背景に、さまざまなアンサンブル形態でのダンサーたちが冒頭から動き回っている。それが2階建てで前後独立して可動する舞台機構を駆使し、音楽や簡素だが美しい装置・衣装とポリフォニックに絡んで立体的に展開される。オーケストラと歌手は、いわばその伴奏に過ぎないかも知れない。
6人の娘しかおらず、男性の後継者を生めなかったことが新たなアトン信仰を疑問視させ、デマコーグたちにつけいる隙を与える要素でもあった。これらの娘たちの生き埋めシーンなどが象徴的に舞台化されているが、はてどこかの国の皇室にも似たような後継者問題があったような・・・。照明技術を駆使した全体のタブローが美しく、教義は異なってもプロテスタント関係者が集まった会場の聴衆は、一般市民ともども大いに楽しんでいた。隣の席の老婦人は、昨日も来て美しかったのでもう一度来たと語っていた。恵まれた劇場である。
さて、プロテスタント絡みでもうひとつ。今度は内容自体にそれが関わっている演目、マイアベーアの《ユグノー教徒》(1836)である。こちらはドイツ有数のドレスデン州立歌劇場が6月末にプレミエを行った、ペーター・コンヴィチュニー演出による新制作だ。
新教徒であるユグノーに対して行われた1572年のサン・バルテルミの虐殺の史実に題材を採ったこの作品は、パリ・オペラ座を中心に19世紀前半に盛期を迎えていたいわゆるグラントペラの代表作であるが、ワグネリズムの台頭とナチズムに通じる反ユダヤ主義のなかで19世紀後半から20世紀全般にかけて、ほとんど顧みられなくなった作品でもある。グラントペラの上演自体が20世紀末まで凋落していたが、1990年代のバロック・オペラ・ルネッサンスに始まるさまざなまオペラ・ルネッサンスの一環として、いよいよグラントペラもヨーロッパの劇場を再び賑わすようになってきており、そのなかで上演頻度がこのところ急増した演目がこの《ユグノー教徒》である。ことに2010年代に入ってからの再演頻度は急上昇している(今回を含めてすでに10ほどの新制作がある)。
日本のオペラ・ファンにとっては、おそらくあらすじすらもおぼつかない演目であろうが、人気作家であったマイアベーアのなかでもダントツの人気作で、アリアや二重唱、アンサンブルを含めてさまざまな聴かせどころがあり、それらは19世紀のオペラ創作の模範ともなっている。
今回、2度の休憩を挟んで4時間ほどで上演されたコンヴィチュニー演出は、それでも多くのカットを含んだものだが、舞台としてはこの演出家らしいさまざまな理念や手法や工夫を交えたものとなっていた。コンヴィチュニーはこの作品を非常にポリティカルなものとして捉えており、ことにカトリックとユグノーが一見なごやかに、いわば偽装として表面上友好的に対応しつつも、その背後に強い反撥と憎しみがとぐろを巻いている様子を、基本的に美しく高度な質感の装置のなかのさまざまな局面でグロテスクに強調して舞台化していた。
例によって中央のアクティング・エリアを広く取った舞台設計。モティーフとしてはレオナルドによる『最後の晩餐』の絵が用いられており、一見なごやかに食事するものの、そのなかに裏切りと疑念を交えた場面が舞台の基本的なタブローとして何度も用いられている。例えば、第1幕で大勢のカトリック信者たちとともに、ユグノーの主人公であるラウルが横長のテーブルについてなごやかに食事をするところ。パンを仲良く分け合う姿が聖書のことばにあやかってなんとも強烈な印象を与える。同じく、ユグノーの本当の味方であるカトリック教徒ヌヴェール伯が、やっかいな誤解からラウルと相思相愛のヴァランティーヌと結婚式を挙げてしまい、それを怒り悲しむラウルと、両教徒たちの調停を画策しながらもあらぬ方向にそれが逸れてしまってとまどうナバラのマルグリット王妃たちが、新婚夫婦を交え、やはり同席して食事をする第3幕の幕切れなど。ここでも同じように長いテーブルを前にしててパンを分かち合う欺瞞に満ちた友好的場面の表面性を、コンヴィチュニーはいかにも皮肉っぽく描ききっている。
ユグノー殲滅を唱えて登場する王妃カトリーヌ・ド・メディチは、エリザベス女王そっくりの出で立ちで登場し、会場からは失笑が出ていたが、これなどもコンヴィチュニー特有の、笑いを交えながら現実と結び合わせる挑発的な手法であろう。笑いと哀しみの起伏が大きく、そのバラストを揺り動かすことはこの演出家の手練でもある。でも、グラントペラ特有の数多くの合唱場面における大勢の人物の動かし方が常に見事で、この基礎的で確実な演出手法を身に付けているために、コンヴィチュニーは単なるレジーテアーターの古参旗手にとどまらない評価を得ていると思う。
マイアベーアのスタイルは、いわゆる19世紀的なベルカントの技術と新たに登場した合唱やアンサンブルの効果を結集したものだが、前者に関してはバロックオペラ・ルネッサンスやロッシーニ・ルネッサンスを通して多くの若い才能が登場してきた。ことにマルグリットとヴァランティーヌには破格のコロラトゥーラ技術が必要だが、ロシア出身のヴェネラ・ギマディエヴァとアメリカ出身のジェニファー・ロウリーはともに絶妙でスリリングな歌唱を聴かせたし、そのほかの難技巧パートの歌手も総じてみごとだった。こうした世界中から登場する若い歌手たちが揃ってきたために、グラントペラ・ルネッサンスも可能になっていることが痛感される。
第5幕の幕切れはかなり凄惨で、同時にやるせないものであるが、コンヴィチュニーは娘の思わぬ死を知って愕然とする父親という最後の「発見的認知」場面でオーケストラを沈黙させるなか、バス・クラリネット奏者を舞台上に静かに登場させて第5幕第2場にある有名なソロ・パートを吹かせながら幕を閉じている。これもコンヴィチュニーらしい手法とは言え、虚しさのなかに挽歌のように響くこの楽器の効果は絶大であった。
(2019/7/15)
——————————————————–
長木誠司(Seiji Choki)
1958年福岡県出身。東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。音楽学者・音楽評論家。オペラおよび現代の日本と西洋の音楽を多方面より研究。東京大学文学部、東京藝術大学大学院博士課程修了。著書に『前衛音楽の漂流者たち もうひとつの音楽的近代』、『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』(作品社)、『オペラの20世紀 夢のまた夢へ』(平凡社)。共著に『日本戦後音楽史 上・下』(平凡社)など。