東京交響楽団第670回定期演奏会|齋藤俊夫

東京交響楽団第670回定期演奏会

2019年5月25日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種 (Kiyotane Hayashi)

〈演奏〉
指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ(*)
東京交響楽団

〈曲目〉
ベンジャミン・ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品15(*)
(ソリストによるアンコール)
エルウィン・シュルホフ:『ヴァイオリンのためのソナタ』より「アンダンテ・カンタービレ」(*)
ドミトリー・ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 作品47

 

「将来に対する唯ただぼんやりした不安」と言い遺して自殺を選んだのは芥川龍之介であるが、今の日本にこの不安を感じていない人間などいるのだろうか?ぼんやりとした不安はいつか確固たる恐怖と化し……ああ、筆者もその先を考えたくはない。

1939年、すなわち第二次世界大戦勃発の年に作曲されたブリテンのヴァイオリン協奏曲、第1楽章はまずは牧歌的な出だしで始まる。だが、長調とも短調とも取れるブリテンの復調から醸し出されてくるのは「ぼんやりとした不安」に他ならない。その不安の中で悲しみを湛えつつあくまで独り旋律を奏でるヴァイオリンソロ。ダニエル・ホープの最高音域、特に限界まで弱音に至ったときの音色の澄み切った美しさは喩えようがない。
第2楽章の出だしはショスタコーヴィチ的道化的悲劇とでも言えるか。次第に不安は悲劇として激しく実体化する。カデンツァでは、ハーモニクス、重音、ピチカートなどでテーマの断片を奏で、それらが集合し複雑化していって旋律を成す。なんと苦しげな。
上行音階からアッタッカで繋げて演奏される第3楽章、悲劇の後のさらなる悲劇か?切々と悲しいソリストのヴァイオリンの美しさ。それに対して、金管楽器とオーケストラが「誰かの」勝利を、不吉に、そして高らかに告げ、崩れ落ちる。誰の、何の為の勝利だというのか?
ソリストはただ独り歌い続ける。悲しさを忘れまいと、美しさを諦めるまいと。最後はオーケストと共に歌い、彼らに見守られ、長調と短調を行き来して、ディミヌエンドして終わる。

アンコールのシュルホフは、ほぼ無調の美しさと悲しさを湛えたホープの名演。最後に最高音域での重音奏法の最弱音が消えゆくのをじっくりと聴き、静かに、やがて大きく拍手が沸き起こった。

ショスタコーヴィチ交響曲第5番、何かと議論を呼ぶ傑作であるが、今回のノット・東響による解釈は「狂気の勝利」としか思えなかった。
第1楽章、猛々しく吠えることなく、弱音・やや遅めの速度で、音量とテンポを大胆にかつ繊細微妙にゆらして、「息をひそめて聴くショスタコーヴィチ」という、筆者には初めてのショスタコーヴィチ第5番。絶対音楽というには悲しすぎ不穏すぎ、悲劇的というにはひそやかすぎる。ピアノが入るあたりからテンポが一気に速くなる。さらにスネアドラムなど打楽器が入ってのマーチのその一糸乱れぬキビキビとした合奏に宿る狂気!全体主義!再現部で序盤と同じく弱音に戻るが、もう「将来に対する唯ただぼんやりした不安」などと言っている段階ではない。狂気はここにある。
第2楽章はショスタコーヴィチ流の痛烈な道化。全体主義をあえて可視化(可聴化?)することによってその愚かしさを眼前のものとする。楽章最後は強烈な一撃で終わる。
第3楽章、綱渡りのようにギリギリの音量とテンポ、すなわち、少しでもずれたら音楽が破綻して落下してしまう、狂気に落ちてしまう演奏。木管のソロの上手さに感嘆するも、シロホンが入る部分に強者=権力者の姿をはっきりと見た!狂っているのはこの世界か?強者=権力者か?それとも私か?
第4楽章、狂者の完全な勝利=世界の滅亡を祝う音楽。ベートーヴェン以来の交響曲の勝利はここに完全に逆転される。この交響曲は勝利することによる滅びを描いている。短調も長調も等しく狂気の勝利である。祝え!狂気を!祝え!この世界の滅亡を!それは誰のための?この世界は誰のためにある?誰のために滅んだ?

恐るべきショスタコーヴィチ第5番であった。技術的に気づいたことを付け加えると、要所要所で金管などに現れる不協和音の、非和声音を強調して、「狂気の勝利のファンファーレ」的な音を響かせていた。通常ならその非和声音が協和音に解決してめでたく終わるのだが、今回はその協和音すらも狂気と化していた。

ブラボーとスタンディングオベーションの嵐、団員が舞台袖に引いても鳴り止まない拍手によりノットが幾度となくステージに現れる中、「将来に対する唯ただぼんやりした不安」から「本物の狂気」の段階へと我々の時代は既に進んでいるのではないか?そんな恐ろしいことを考えながら、しかし、音楽の力に圧倒されていた。

(2019/6/15)