五線紙のパンセ|ラナンキュラス|川上統

ラナンキュラス

text & photos by 川上統(Osamu Kawakami)

巷でよく耳にする「この音楽の良さが分からないなんて」とか「分かりにくい音楽だなあ」等のように、音楽を評する時に「分かる」という言葉が付帯される事がある。よくよく聞くと、この「分かる」という言葉は音楽に限らず「分析し理解する」といった趣向のものではない事が多い。その対象とする音楽に対し、個人的な良し悪しを判断し「良さ」を享受できる余地(自分ではなく仮想定する他人が受け取る場合も含めて)があるものに「良い(のだろうな)」という事が「分かる」という基準として設定されているように感じる。

私自身も「分析する、理解する」と別の次元に漠然とした「良さ」への享受の趣向というものがあり、前回の投稿で「調性」についての判断基準は個人的で抽象的なのではないか、という私見を述べていた部分にも少々共通したものがある。ただし、少し踏み込み、「何故これは良いと感じるのか?」という部分に対しての明文化は出来るので必ずしも「分かる」という事が「分析、理解」との齟齬があるとは感じていない。それでいて、音楽を受け取った時期、状況、たまたまその瞬間に琴線に触れる偶然、等の要素があり、その音楽そのものの内容に関する要因だけに留まらない場合が多いのである。「この音楽が分かった!」という瞬間はそれほどに個人的で不思議な現象であると感じている。殊に現代音楽の聴取に関しては、その現象のオンパレードであり、自他に認識を広げて「分かる」という基準や尺度探しをするだけでも、個人的にはとても楽しく感じている。

そんなわけで、これまで好み受け取ってきて音楽について色々な状況や時期と併せて記していきたいと思う。

小学生・中学生の頃に好んで聴いていたのは、世代的なものもあるが、やはりゲームの音楽が挙げられ、これはゲームの内容と共に特定のゲームをした者同士の共通言語に近いものが当時あった。時期としては少し後になるが、好んで聴いていたのは「ダライアス外伝」の曲など。ファミコン→スーパーファミコン→アーケードという風にサウンドと共に興味も移っていった。

家族で車に乗り父親がかけていたカーステレオでかかる音楽も当時聴きながら気になるものは多く、Pink FloydやElectric Light OrchestraやThe Beach Boys、今も好んでよく聴くのはCream。
Pink Floydは主に「Dark Side of the Moon」をカーステレオで(ある種偶発的に)聞かされていたのだが、一連の緊張感に若干怖さを感じつつ小学生当時「Time」「Money」冒頭のSEの面白さから少しずつ興味が向くようになっていた。ややイングランド系に偏っていたラインナップながら、その後プログレッシブロックやブリットポップに食指が動く事は不思議となかった。むしろイングランド方面ではUKダブ&レゲエ、ドラムンベース、IDM等の全然違う方向に後に傾倒していく。

そして小学生の頃に最も聴いていたのは、高学年時にやや不眠症気味だった自分を救ってくれたR.ワーグナーの「パルジファル」の前奏曲だった。毎日のように午前3時近くまで眠れなかった自分がせめても眠る前に寂しくないように音楽を聴きながら寝ようと考え、家にあったCDを一つ拝借したところ、それがたまたまワーグナーの楽劇後期前奏曲でありその最後のトラックが「パルジファル」の前奏曲。CDを聴き終えつつ安らぎを覚えていた。聴き終わり、自分が眠たくなっていなければ途端に再び不安に駆られ再びCDを聞き出す、という文字通り「重たい」ヘビーローテーション。楽しくも疲れる小学生時代だった。

小学生、中学生当時、先ほど述べたようにゲーム音楽はどちらかというと友人との共通言語になりやすく共有のしやすいコミュニケーションツールであったのに対し、カーステレオで聴いていた音楽やワーグナーの音楽などは他人とは共有せず、自分の中に密かに「分かっていたい」と感じて蓄積した内在化の音楽だった。

中学生後半に差し掛かると、アーケードのゲーム音楽と並行してM.ラヴェルのピアノ音楽にはまり、何故か管弦楽には食指は動かず、「ハイドンの名によるメヌエット」「クープランの墓」辺りを好んでひたすら聴いていた。この体験はそのまま今に至り、G.フォーレへの強い傾倒へと繋がっていった。

高校生当時は在籍していた放送部室にあったYMOの「BGM」に衝撃を覚え、特に「ラップ現象」をより好んで聴いていた。同時に音大受験用に弾いていたS.プロコフィエフに強く傾倒し特に「ピアノ協奏曲第4番」が今でも最も好きなピアノ協奏曲として自分の中で鳴り続けている。なかなかこの曲が好きであるという感覚の共有者が当時も今も少なく、こちらも個人的に内在化していった音楽であるような気がする。

最も音楽を能動的に聴き倒していたのは浪人時代と大学に入りたての時期であった。どういうきっかけかは失念しているが、おそらくテレビでTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとBLANKEY JET CITYを聴いた辺りから当時の様々な日本の音楽ムーブメントに興味を抱き、小島麻由美、Tokyo no.1 soul set、THE MAD CAPSULE MARKETS辺りをより好むようになり、聴く音楽の範囲は急激に広がっていった。

特にTHE MAD CAPSULE MARKETSを手掛かりにハードコア方面への興味が大学に入ってから強くなり、Melt BananaとHellchildの二つのバンドに行き着いた。この二つのサウンドは「無調」というわけではないが自分はここから轟音と鋭さと重たさの魅力に取り憑かれ、前衛への興味に誘ってくれたのは現代音楽ではなく、どちらかというこのような入り口であった。

勿論現代音楽への興味も並行してあった。G.リゲティのピアノエチュード集の演奏をたまたま大学に入る少し前にテレビで聞き、意外なほどに澄んだ音使いと分かりやすいコンセプトに惹かれた。そしてそこから逆引きするように大学に入ってからC.ナンカロウに衝撃を受け、ほぼ毎日「自動ピアノの為のスタディ第37番」を聴く位に傾倒していった。同時にI.クセナキスの音楽(特に「Ioolkos」辺り)にも傾倒し、こちらは先ほど挙げたハードコア方面との共通の楽しみ方をしていたような気がして、すんなり聴き入った覚えがある。

演奏会で実際に聴き、音楽の聴き方が抜本的に変わったという体験もあった。1999年、第5回北とぴあ国際音楽祭にて「近藤譲 作品個展」を聞きに行った時の衝撃はとても大きく、この時に耳が何かしらのフォーカス(音と時間の両方の細部に対して)をするという事を自覚するようになって以降、抽象的な方面の音楽の楽しみ方が「分かった」ような気がしていた。(これは54-71のライブを聴いた時にも追体験として感じた)

それが本当に「分かった」のかどうかは、勿論自他の共通認識としては分からないが、ちょうど様々な音楽に対しての興味が広がっていた時にそれらを享受する時「腑に落ちた」ように聞こえたと思える体験をこれ以降多く持てるようになったのは幸運だった。この「腑に落ちた」という感覚は「良さを分かったと判断して享受する」前段階として、自分の認識にストンと入れるという体験であるような気がしている。逆に言うと「腑に落ちた」あとに「分かった」ところまで行き着くには、個人個人のハードルがそれぞれあり、やはり「分かりやすい」音楽というのは共通認識として一様に語れないのではないだろうか、と改めて思うようになっている。

「分かりやすい」というキーワードを植物につけてみて「分かりやすい植物」という言葉を作ってみる。植物に「分かりやすい」も何もあるのだろうか?とこの言葉を打ち込んだ当の自分が当惑しつつ、ふとラナンキュラスの事を思い浮かべていた。小学生位の時に図鑑でこの花のイラストを見て、名前の奇妙さとやたらと派手な花に興味を持ったまま、長く自分の認識に預かったままになっていた。それから随分と経ち大学、大学院も修了した後に園芸屋さんでラナンキュラスをふと見つけて「何と分かりやすい植物なのだろうか」と衝撃を受け、育てる事にした。カエルの足のような葉が茂った中から巨大な花が突如顔を出しているような姿は何と言うかデフォルメ過剰なほどのインパクトがあるように、私には感じられた。

しかし、デフォルメされているから「分かりやすい」というわけではない。名前の奇妙さのおかげで幼少の時から図鑑で見て何となく気になっていたという期間が長い、という極めて個人的な要因から、結局のところ自分にとって認識が身近な存在であった、という事が分かりやすさに直結しているようにも思えるのである。この花に関しては身近な植物ながら「ラナラナンキュラス」という曲の名前にも取り入れている。

ラナンキュラスは6月に入ると、既に株の部分は枯れてしまい、花も勿論ない状態だが、枯れ込んだ土の下の球根が生きていれば翌年も冬からその姿を拝む事もできる。一度気になった音楽に対して、その時は良さを「分かる」ところまでいかなくても、時間をおいた後でも良い時期に「分かる」事があるように、気になった興味の芽というものは、心の中で球根のように意外な程に奥の方で残っているもの。人それぞれに時間をかけて、来たるべき時期に「分かる」という事に対して大らかであれば、それこそ音楽を楽しむという事の一番自然な形であるように思う。私自身、上記に挙げていったような雑食気味の受け取ってきた音楽が、これからどのような形でもっと深めに「分かって」いけるだろうか、とその感覚が熟す時期を楽しみに待ちながら、より様々な音楽を聴いていきたいし作っていきたいと思っている。

こんなにも「分かりにくい」文章を三ヶ月に渡ってお読みいただいた皆様に御礼申し上げます。

★公演情報
日時:6月28日 (金) 18:45開演 会場:エリザベト音楽大学セシリアホール
「器楽の夕べ」
川上統:《尾長鮫》(2019、初演)
演奏:森川久美(フルート)品川秀世(クラリネット)戸梶美穂(ピアノ)
一般前売:2,000円 当日:2,500円
http://www.eum.ac.jp/concert/docs/20190330113658.pdf

★CD情報
●ROSCO「てふてふもつれつつかげひなた」 ジパングレーベル
http://www.zipangu-label.com/product/84
《雀》《コウテイペンギン》収録
●KOHAKU「歌われる詩たち」 ジパングレーベル
https://www.amazon.co.jp/dp/B010RVAY0C/
《こねこねこのこ》収録
●小寺香奈「ディスカヴァリー・ユーフォニアム」 Florestan
http://tower.jp/item/4191144/
《ピューマ》収録
●智内威雄「左手のアーカイブCD-008」左手のアーカイブ プロジェクト
http://www.lefthandpianomusic.jp/?p=3828
《組曲「宮沢賢治の夜」》収録
●會田瑞樹「ヴィブラフォンのあるところ」ALM RECORDS
http://www.kojimarokuon.com/disc/ALCD113.html
《Wolverine》収録
●山田岳「Ostinati」ALM RECORDS
http://www.kojimarokuon.com/disc/ALCD114.html
《ゴライアスオオツノハナムグリ》収録
●低音デュオ「双子素数」ALM RECORDS
http://www.kojimarokuon.com/disc/ALCD118.html
《児童鯨》収録
●川上統「蛍光晶」HORIZON
https://www.e-onkyo.com/music/album/tcj4526180418948/

(2019/6/15)

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川上統 (Osamu Kawakami)
1979年生まれ。東京生まれ、広島在住。 東京音楽大学音楽学部音楽学科作曲専攻卒業、同大学院修了。 作曲を湯浅譲二、池辺晋一郎、細川俊夫、久田典子、山本裕之の各氏に師事。 2003年第20回現音新人作曲賞受賞。 2009、2012、2015年に武生国際音楽祭招待作曲家。 2017年、HIROSHIMA HAPPY NEW EAR 23 「次世代の作曲家たちV」にて室内オーケストラ曲『樟木』が広島交響楽団の演奏によって初演される。 2018年秋吉台の夏現代音楽セミナーにて作曲講師を務める。 楽譜はショット・ミュージック株式会社より出版されている。
現在、エリザベト音楽大学専任講師、国立音楽大学非常勤講師。
Tokyo Ensemnable Factory musical adviser
Ensemble Contemporary α作曲メンバー
作曲作品は160曲以上にのぼり、曲名は生物の名が多い。
チェロやピアノや打楽器を用いた即興も多く行う。