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N響 Music Tomorrow 2019|西村紗知

N響 Music Tomorrow 2019

2019年5月28日 東京オペラシティ コンサートホール
Reviewed by 西村紗知 (Sachi Nishimura)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
NHK交響楽団
ジュゼップ・ポンス(指揮)
クレア・ブース(ソプラノ)(*)

<曲目>
薮田翔一:祈りの歌(2019)(*)
藤倉 大:Glorious Clouds for Orchestra(2016/17)
ジョージ・ベンジャミン:冬の心 ソプラノとオーケストラのための
  ――ウォレス・スティーヴンスの詩『スノー・マン』による――(1981)(*)
ベネト・カサブランカス:いにしえの響き ――管弦楽のための即興曲(2006)

 

出来事の羅列は、出来事相互の親和性によって可能となるが、出来事の内奥にある論理によるものではない。基本的には羅列する者(作曲家)が、思うままに羅列するのである。
出来事の羅列によって15~20分ほどの時間を埋めていく、そんなオーケストラ作品が現代音楽には多い。構成する(komponieren)のではなく、羅列する(nebeneinandersetzen)作法。
思えば、かつてケージの作品に触れながら音楽学の庄野進が「枠と出来事」という音楽の在り方を提示したのであったが(庄野進『聴取の詩学』勁草書房、1991、pp.47-52。)、今日ますます「枠」は強固となり、「出来事」は枠に奉仕する。あるいは枠をどこから調達するか、出来事だけでは音楽が短尺で終わってしまうという極めて現実的な問題があるため、作曲家は頭を悩ませているように見える。
この演奏会で披露された作品の中で今回が世界初演であったのは薮田のものだけで、その意味では演奏会タイトルに付されたところのTomorrowの感はさほど無いのである。だからといってこの演奏会自体が懐古的・保守的というわけでもない。例えば作品における「枠と出来事」のこれからの状況を聴き取らなければならないとすれば、充実した演奏会だったといえるはずだ。「枠と出来事」や羅列モデルの破棄の可能性を夢想するのもやぶさかではない。

最初に演奏されたのは、NHK交響楽団委嘱作品であり、今回が世界初演となる薮田の「祈りの歌」。薮田の作品の中でもポップス寄り、とまではいかなくても劇伴音楽の感があるこの作品は、ピアノとテューブラー・ベルの響きが印象的な、明暗入り乱れた序奏にはじまる。この序奏はまもなく弦楽アンサンブルを中心としたフーガのような軽快な音楽に接続され、一旦ゲネラル・パウゼを挟んで次はカルテットが実に清廉な響きを聞かせてくれる。やがてはじまる弦楽アンサンブルも消え入るように鳴り終わると、ソプラノのクレア・ブースが舞台に登場する。ソプラノのヴォカリーズははじめ無伴奏だが、やがてオーケストラを伴って軌を一にし、壮麗な響きで作品は閉じられる。打楽器の存在感が控えめだったためか、総じてスタイリッシュにまとまっており、フィクショナルな感じは否めないが、祈りの音楽には違いない。

次は第67回尾高賞受賞作品である藤倉の「Glorious Clouds for Orchestra」。これで藤倉は通算3回目の尾高賞受賞となるという。「微生物オーケストラ」とも言うべきこの作品からは、微生物のイメージに藤倉の音楽思考がしっかり託されていることがわかる。目に見えないほど微細で、それ自体ではどのような働きをするかわからないが、ありとあらゆる生物の内に生息して、いつでも大きな全体をコントロールしている存在、微生物。微生物のそうした生存原理がそのまま音楽の形式原理になれば、素晴らしいに違いない。
しかしながらこの作品では、いろんな種類の微生物の多種多様な様子が場面を変えながら描かれるばかりで、例えばフラッター奏法のフルート、弦楽器のグリッサンドやトレモロ、弱音器付きの金管やらが組み合わさったりして、それは確かに微生物的な音響であるしアンサンブルとしては聞いていて楽しい。
しかし終盤、ティンパニの一打を皮切りにオーケストラ全体でプレストに入って、弦と金管がコントラストをなしながら、そこから最後金管アンサンブルの音割れしたファンファーレが高らかに鳴り、そのまま大団円……こうした着実に終結へと向かう展開が果たして微生物的なのかどうか、疑問が残る。
どれほど増殖しても全てシャーレの中の出来事ということだ。藤倉の微生物にはガラスの容器を壊せない。

掌握しがたく、不思議と枠の存在に意識が向かない――こうした点で明らかに後半の2作品の方に分がある。

はじめのサスペンデッド・シンバルが鳴り始めた瞬間から、絶えず、凍えたモノクロームの世界が現前し続ける。ベンジャミンの作品は、音色が豊かでありつつ音色相互の切れ目を綻ばせない、巧みなオーケストレーションが魅力的であった。これは視覚的かつ立体的で、弦楽器はしっかりと下地の役割を果たし、アクセントとして機能するパーカッションも浮き立ったり、悪目立ちしたりということが決してない。ソプラノもまたオーケストラと一体化しており、オーケストラから飛び出してくるかのようである。全体に行き渡る必然性の強さ。

カサブランカスの方は、怒濤の展開で聴衆を圧倒する。異なる音色の間で、次々とフレーズが受け渡されていく。そこに単調な対立関係は聞きとれない。シェーンベルクの〈管弦楽のための変奏曲〉作品31のようでもある。特徴を言うとすれば、部分部分でフルートが主導するところが多い、くらいで、あとは爆発と静寂をひたすら繰り返す。木管アンサンブルによる静寂な部分が中間部にあたるのかどうかも、全体を聞き通した後となるとよくわからない。音楽が謎であり続けるということ。

個人的には、音楽の明日は後半2作品の方に感じられたが、ポテンシャルというのはどこにあるのか案外わからないものだ。なんにせよ、羅列したい欲求であっても、新しい論理を育む土壌であることには変わりがない。

(2019/6/15)