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音楽にかまけている|ザルツブルク聖霊降臨祭2019|長木誠司

ザルツブルク聖霊降臨祭2019

text by 長木誠司(Seiji Choki)

ザルツブルク音楽祭を「ザルツブルク祝祭」と訳さねばならないと主張するひとがいる。もちろん、そもそもの始まりだった夏のFestspieleには当初からの『イェーダーマン』をはじめとするさまざまな演劇プログラムがあるので「音楽祭」はないだろうが、モーツァルト週間や復活祭、そして6月の聖霊降臨祭でのFestspieleは演奏会やオペラが中心なので、「音楽祭」で十分だ。
その聖霊降臨祭。メゾソプラノのチェチーリア・バルトリがいるから始まったようなものだが、彼女を芸術監督にし、同時に中心歌手としながら、いわゆるベルカント時代のオペラ――バロック・オペラからロッシーニ、ベッリーニ辺りまで――を中心に、レパートリー作品を一新したり、忘れられた作品を蘇演したりして、非常に意欲的なプログラムを展開してきた。

© SF/Matthias Horn
《アルチーナ》よりバルトリのアルチーナ

今年はふたつのオペラが中心で、ひとつはバルトリをタイトルロールにしたヘンデルの《アルチーナ》、そしてもうひとつは、ヘンデルのライヴァルでもあったポルポラのオペラ《ポリフェーモ》である。後者の上演は今もって非常に稀なので、蘇演に近いと言ってもよいだろう。このほか、カルダーノの聖史劇《アーベルの死》の上演や、シェルシとペルトによる現代的な一夜というのもあって、なかなか盛りだくさんなのだが、そう長くもいられない。
《ポリフェーモ》と《アルチーナ》は、まさに1735年のロンドンでポルポラとヘンデルのライヴァリーをはっきりさせた作品だ。2ヶ月半ほどの差で初演された両作品は、前者がファリネッリ、後者がカレスティーニという、当時大人気のカストラートを前面に出したことでも知られる。そして、カルダーノの聖史劇は1732年のウィーンでファリネッリのために書かれた作品でもある。1730年代、カストラートが活性化しているヨーロッパの様子が点描的にではあるが見えてくるというのが今回の主旨である。
個人的には聖霊降臨祭のザルツブルクは初めてなのだが、いろいろな強者オーケストラがやってきて、オペラの演目も多く、ソロ演奏会も目白押し――そして芝居も大いに盛り上がる――という夏に比べると、いささか街は落ち着いた表情を見せ続けている。例えば今回の《アルチーナ》のような目玉は、夏にも再演されるが、そのときのはちゃめちゃな熱狂振りと比べると、同じ熱狂でも少し違って、本当にこうした演目が好きなひとが集まって、「広く」ではなく「深く」盛り上がっている感触である。実際、《アルチーナ》のような名歌手揃いならば夏は早々に売り切れ近くまで行くはずなのに、プレミエのあった聖霊降臨祭では比較的下の方のカテゴリーまでチケットが売れ残っている、これは意外な事実であった。

© SF/Matthias Horn
《アルチーナ》より、ルッジェーロ(ジャルスキー)と ブラダマンテ(ハンマーシュトレーム)

さてその《アルチーナ》、6月7日のプレミエ。アルチーナ役のバルトリのほか、ルッジェーロ役にフィリップ・ジャルスキー、モルガーナ役にサンドリーヌ・ピオー、ブラダマンテ役にクリスティーナ・ハンマーシュトレームという、超豪華な布陣である。これにダミアーノ・ミキエレット演出とくれば、もう「その筋」のひとはうずうずしてたまらないだろう。
数あるアリオスト・オペラのなかでも、ヴィヴァルディの《オルランド・フリオーソ》とともに、今のようなバロック・オペラ人気の生じる前からレッパードやサザーランド、マリリン・ホーンといったひとたちの努力もあってある程度レパートリー的に上演されてきていた作品だが、近年はとくにさまざまなプロダクションが登場して賑やかな作品でもある。
ミキエレットは序曲中に左側の大きな鏡からアルチーナを登場させ、それが彼女の世界と現世を境界付ける要であることを意識させながら、中央の回転舞台上に大きな半透明の衝立を立てて、その向こう側に常に彼女が獣や木々その他の自然の事物に魔法で転身させた男たちのうごめく世界をうっすらと作り上げた。衝立の手前は現実世界なのだが、そこもアルチーナの支配する世界には変わりない。最後ルッジェーロが鏡を盛大に打ち壊すことによって、アルチーナの息は絶える。
全体はホテルのロビーのような設定で、最初そこにいる男たちが逃げ場を探して走り回り、絶望していく様子が舞踊曲の間に描かれる。そのなかからルッジェーロを特にアルチーナは選択する。そこにブラダマンテとメリッソがやってくるという設定だ。モルガーナとオロンテはともにホテルのメイド役。
バルトリがアルチーナ役をちゃんと歌うのはこれが初めてだと思うのだが、激しい恋慕心と、魔女という論理のなかでの非常に純粋な愛情、そして情念に燃えた復讐心、これらはすべてバルトリにぴったりなキャラクターだろう。実際、彼女が歌う多くのアリアでは、時間が凝固し空間が身動きを止めて、すべてが彼女にじっと聴き入っているような、独特の集中力が感じられた。これはまさにアリアの極致だ。バルトリは声楽版アルヘリチだと思っているのだが、その目まぐるしく変わるニュアンスの多彩さ、どのような至難なパッセージも平板にならずに寸刻みでくるくると変わっていく表情と、それが秘める怖いほどの情念の深さ。それはやはりピカイチだ。
もちろんジャルスキーのしっとりとした伸びやかな美声、ドゥセ以来のおきゃんなモルガーナと言えるピオーの嬉嬉とした歌い口、アジリタだらけのブラダマンテ・パートに見えるハンマーシュトレームの技術、どれをとってもすばらしい。
今回とても印象的だったのは、父を探すオベルト役のウィーン少年合唱団員シェーン・パクで、ヘンデルがまさに少年歌手のためにあとからくっつけたこのパートの至難な技巧とアルチーナ糾弾の凄みとにすばらしいプレゼンテイションを示した。カーテンコールでは熱狂的な拍手とブラヴォで他の歌手を喰わんばかりだったのが頼もしい。
ジャンルーカ・カプアーノとレ・ミュジシャン・デュ・プリンス・モナコの演奏も、装飾多く、自由奔放で楽しいものだった。アリアの最後に必ずカデンツァを入れる方法が徹底されていたが、そこを各歌手と一緒に丹念に作り上げている。ソロ歌手とソロ器楽奏者が競い合うようなスリリングなアリアがいくつもあって、準備の手間を惜しまぬ上演には頭が下がる。

© SF/Marco Borrelli
《ポリフェーモ》より、アチスとガラテーアが抱き合う姿を発見して怒るポリフェーモ

アルチーナはモーツァルト・ハウスでの公演であったが、翌8日の《ポリフェーモ》の方は大きなフェルゼンライトシューレでのセミ・ステージ上演。もっとも、幕の開閉と装置の変化がないだけで、衣装も演技も普通にある。
こちらは『変身物語』のアチスとガラテーアの話にオデッセウス(ウリッセ)神話がはめ込まれた、バロック特有の何でもあり的な筋なのだが、当時の人気演目でもあった。ガラテーアに横恋慕するひとつ眼巨人のポリフェーモが、ウリッセらの活躍で退治されるもの。ポリフェーモに殺されたアチスは、神によって自身が神にされ、不死の体になってガラテーアと結ばれる。
こちらは、ウリッセ役にエマヌエル・ツェンツィチ、アチス役にユーリイ・ミネンコ、ガラテーア役にユリア・レージネヴァといった人気歌手を配した舞台。アチスの歌うAlto Giove(偉大なゼウスよ)のみを知っているひとがほとんどだと思うが、全体に技巧的なアリアとしっとりとしたアリアが張り巡らされた、変化に富んだ作品であることがよく分かった。ことにガラテーア役の強烈なアジリタをレージネヴァが軽々と歌いきっていることが驚異であった。ただ、アルモニア・アテネーアの演奏もそうだが、全体にのんびりとした感触で、作品も歌も演奏もキレキレに切れまくっていた《アルチーナ》と比べると、ドラマ展開などどうでもよい時代、刹那的な歌の一瞬一瞬を楽しむだけの時代の作品であることが対照的に見えてくる。やはり作曲家としてのポルポラとヘンデルとの間には、越えがたい、そして後世に残りがたい、資質の差があるように思われた。それも今回のテーマの隠れた主張だったろうか?

(2019/6/15)

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長木誠司(Seiji Choki)
1958年福岡県出身。東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。音楽学者・音楽評論家。オペラおよび現代の日本と西洋の音楽を多方面より研究。東京大学文学部、東京藝術大学大学院博士課程修了。著書に『前衛音楽の漂流者たち もうひとつの音楽的近代』、『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』(作品社)、『オペラの20世紀 夢のまた夢へ』(平凡社)。共著に『日本戦後音楽史 上・下』(平凡社)など。