シュニトケ&ショスタコーヴィチプロジェクトIII|齋藤俊夫
第47回サントリー音楽賞受賞記念 シュニトケ&ショスタコーヴィチプロジェクトIII
2019年4月27日 トッパンホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
〈曲目・演奏〉
アルフレート・シュニトケ:『Concerto for Three~クレーメル、バシュメット、ロストロポーヴィチのための~』
チェロ:ピーター・ウィスペルウェイ
ヴィオラ:ニルス・メンケマイヤー
ヴァイオリン:山根一仁
同:『メヌエット』(チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリン)
パウル・ヒンデミット:『白鳥を焼く男』
ヴィオラ:ニルス・メンケマイヤー
ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番変ホ長調 Op.107
チェロ:ピーター・ウィスペルウェイ
リヒャルト・ワーグナー:『ジークフリート牧歌』
トッパンホール・チェンバー・オーケストラ
指揮:井上道義
トッパンホール第47回サントリー音楽賞受賞記念と銘打ってのシュニトケ&ショスタコーヴィチプロジェクトIII、受賞をただ寿ぐのではなく、むしろシュニトケとショスタコーヴィチの音楽の真髄たる「抵抗」――それは決して音楽的喜びと相反するものではない――をこの現代日本において呼び覚ますものであった。
シュニトケ『Concerto for Three』、協奏曲と銘打っているものの、実際は3人のソリストが1人ずつ、伴奏と共に1つの楽章を担当し、協奏するのは第4楽章と、ソリスト3人のために書かれ、初演時の終わりにも演奏された『メヌエット』だけの珍しい形式の作品である。
しかし、決して「珍しい形式」なだけの作品ではなかった。
第1楽章はモデラートからアレグレットの、チェロの楽章。冒頭から伴奏チェロとコントラバスがゴリゴリゴリゴリと弦も掻き切れよと擦りまくる。そこに4つ足の恐竜――それも手負い――のウィスペルウェイの独奏チェロが加わる。辺り構わず暴れ狂いながら這い進み、しわがれた雄叫びをあげ、苦しみのあまり樹木や岩石に無茶苦茶に頭突きを繰り返す。何がどうして苦しいのかなどと問うことができない。ただ、ひたすらにチェロが苦悶するのを息をのんで凝視した。
第2楽章ラルゲットは、ヴィオラの楽章。今度は粘っこくこの身にまとわりつくメンケマイヤーのヴィオラの音で身動きが取れなくなる。ヴィオラの生霊に取り憑かれて見る悪夢から醒めることは毛頭できない。普段現代音楽を聴き慣れていると不協和音が「不協和」であることなどは感じなくなるのだが、この作品では不協和音のその「不協和」が実に恐ろしい。苦しんでいるのか、笑っているのか、狂気を孕んだヴィオラの音にまた心奪われた。
第3楽章ラルゴは、ヴァイオリンの楽章。伴奏のpppの薄明の中で山根一仁はヴァイオリンで蜘蛛の糸のように細い音の線を張ると思いきや、fffの濁音で伴奏と共に声を荒げて(何をかは知らねど)訴える。切々と、いや、執念深く、いや、そのどちらでもあり、どちらでもない。美しく、そして恐るべきヴァイオリンの音。
第4楽章アレグロはそれまでの3人のソロと伴奏群が順番に重なっていく。チェロ群は超高速で擦りまくり、ヴィオラ群は粘っこく歌い続け、ヴァイオリン群は超高音を刻む。ミクロポリフォニーやクラスターや不確定性の書法だったのかもしれないが、そんなことはこの際どうでもいい。凄まじい轟音がホールを吹き荒れ、その中で指揮者の井上が譜面を空にぶちまけ、ステージ脇のピアノに走って「ゴォオーン!」と倒れ込む。
そこから『メヌエット』、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンが、もはや苦しみも怨念も悲嘆も全ては無駄に消えたかのように虚ろな、不協和音による対位法の音楽を奏で、了。
ヒンデミットのヴィオラ協奏曲『白鳥を焼く男』は柴田克彦氏のプログラムノートによると「楽士がやってきて、様々な歌を発表し、最後は踊りの曲を披露する」というなんとなくメデタイ音楽のはずであったが、筆者の耳に聞こえてきたメンケマイヤーの音楽は全くそのようなものではなかった。
第1楽章冒頭から、長調とも単調とも無調ともつかない謎の重い苦しい音階に始まり、牧歌的というより、どこからか軍靴のリズムのようなものが聴こえてくる。
第2楽章はヴィオラとハープが睦言を交わすように始まり、民謡主題も現れるが、その主題の明朗さがどこか虚無的。これは旋律ゆえか?メンケマイヤーゆえか?冒頭に回帰して優しく終わっても、耳に残った虚無の記憶は消えない。
第3楽章、前古典派風の明るい出だしから、ソロが旋律も調性もリズムもうねらせて、悩み、苦闘する。調性の限界と無調への脱出の間で西洋音楽が揺れている時代の作品ゆえのこの変奏曲だとはわかりつつも、あまりにもこの音楽は難解すぎ、かつその難題に対してのメンケマイヤーの「回答」はあまりにも怖すぎた。最後こそ本当に牧歌調に終わるが、恐るべきヴィオリストを日本に呼んでくれたと畏れつつの拍手喝采であった。
そしてショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番、もとより凄絶な作品であることは言を俟たない。だが、ウィスペルウェイの凄絶さをいかに言語化できようか?
シュニトケ作品と同じように、弦も切れよと激しく擦る。それと同時に、左右を向いて他のパートの奏者(例えばティンパニー奏者など)を睨みつけ、彼らと争うように大音量を掻き鳴らす。頬を震わせて吠え声をあげる。あまりに力を入れてチェロを弾くために全身が小刻みに震えている。チェロを弾くとはこんなにも激しいことであったか?弾ききった後、万歳をするように弓を空に放り上げるチェリストなど初めて見た。
第2楽章モデラートでは、じっくりと、悲哀とともにチェロで旋律を歌い上げる。それはロシア的、ユダヤ的、あるいはソ連的苦悩の歌?トゥッティに入ると、ホールの大きさと編成が丁度良く釣り合い、全ての楽器の音が美しく響く。だが、そこにチェレスタの音がまるで冥界からの「優しい」お告げのように響いてくる。
音量を限界まで絞って入る第3楽章カデンツァ、音楽的な波に乗りつつ、主題を歪め、その歪みがエネルギーを生み、プレストからそれ以上の高速のクレシェンドで鬼気迫り、実際に吠え声をあげ、唸り、震えつつfffへと至る!
第4楽章、汗だくのウィスペルウェイのチェロを中心に全ての楽器が悪鬼羅刹のように踊り狂う。哄笑か?絶望か?喜劇か?悲劇か?激しすぎるその「叫び」の最後にティンパニーが鳴り響き、「作品」は終わった。だが、「音楽」は我々の中で響き続けていた。
アンコール的なワーグナー「ジークフリート牧歌」、幾度となく繰り返される諸動機を聴きつつ、見よ、世界は美しい、となだめられている気がした。美しい世界に存在する、あまりにも残虐な悲劇という矛盾。その矛盾を前にして、我々には、音楽には何ができるのか。「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の最後のキリストの接吻のごとく、音楽とは、希望なのだろうか、希望でしかないのだろうか。
(2019/5/15)