イゴール・レヴィットⅠ~THE VARIATIONS|藤原聡
2019年4月11日 東京文化会館 小ホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<曲目>
J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
今年で15年目を迎えた「東京・春・音楽祭」。毎年多彩なコンサートが開催されるが、中でもイゴール・レヴィットによる「THE VARIATIONS」と題された2回のコンサート――J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲、ベートーヴェンのディアベリ変奏曲、そしてジェフスキの『不屈の民』変奏曲が演奏される――は最も注目されるべきものだろう。既にこれと全く同じ3曲を3枚組のCDでリリースしているレヴィットだが、その型にはまらない自由な感性による瑞々しい演奏は極めて魅力的である。若手(今年32歳ゆえそろそろ中堅か?)ピアニストの中では最も「尖ってありきたりではない」演奏をする存在だけに、今回のコンサートは極めてスリリングなものになるに違いあるまい。3曲の中から『ゴルトベルク変奏曲』を聴く。省略なしの全リピート敢行、演奏時間約80分。
白いラフなジャケット姿でiPadを手にいささかたどたどしい足取りで登場したレヴィット(その演奏を仮に知らなくても「ありきたりな演奏はしないだろう」という雰囲気がひしひしと感じられる)、しかしその冒頭、アリアは神妙かつ厳粛な面持ちで開始された。だがそれに続く変奏では徐々にレヴィットの「本領」が頭をもたげ始める。完璧なメカニック(技巧と書くよりこう書きたい)、スウィングするかのようなリズム感、いささか前のめりで弾けるように弾かれるアルペッジョ、非常に素早く、それでいて恐ろしく粒立ちの良いトリルの輝き…。録音での演奏にももちろん同種の傾向は感じられたが、あれから4年が経過したためかあるいは実演ゆえの感興か、その演奏は比較にならぬほど自由度が増している。曲がレヴィットの身体にさらに入り込んで一心同体化しているかのよう。
ここで思うのが、この自由さをどう捉えるかということだ。例えば3月にエマールの演奏で聴いた同じゴルトベルクだが、テンポの設定や変奏のグルーピングなどで明らかに楽曲をロジカルに統一する意思が見て取れたのに対し、レヴィットはそういう意識からも離れて各変奏がそれぞれに自由に発言でもしているかのような印象がある。もっと言えばその場の感興で弾いている(しかし、その「感興」の発露のされ方自体が事前に考え抜かれており、だからこそ本番では一期一会的なエモーションが炸裂する)。この「遊戯性」を面白いものとして評価するのか、または野放図だと非難するのか。付言すれば、遊戯的なのだからそこには内面に沈滞していくようないわゆる「情感」の類はあまり感知できず、全ては表層の愉しさに還元される。
要は、筆者はこの演奏を誠に達者で凄いものだと感嘆したのだが、恐らくは前段に記したようなことに由来するであろう違和感を感じずにはいられなかったということだ。だからこのようなもって回ったような書き方になっているのだろう。しかしそれを言えばかのグレン・グールドの演奏が世に出た際にも随分批判にさらされたのだし、問題含みであるからこそ聴き手は安全地帯から高みの見物をしている訳にも行かずに自身の聞き方への自省を強いられる。
理屈抜きに対象と同化したような錯覚を与えられて感動するだけがコンサートの喜びでもあるまい。こういう違和感に基づいて思考を促されるのもまた確実にコンサートの面白さ/かけがえのなさであろう。
(2019/5/15)