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河村尚子 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ・プロジェクト Vol.3|藤原聡

河村尚子 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ・プロジェクト Vol.3

2019年4月25日 紀尾井ホール
Reviwed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目>
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第26番 変ホ長調 op.81a『告別』
ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 op.90
ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調 op.106『ハンマークラヴィーア』
(アンコール)
ピアノ・ソナタ第26番 変ホ長調 op.81a『告別』~第3楽章

 

昨年6月から全4回シリーズとして始まった河村尚子のベートーヴェン:ピアノ・ソナタ・プロジェクトの3回目。2年間の全4回で14曲のソナタを取り上げる本シリーズだが、今回はメインに『ハンマークラヴィーア』を据え、前半に『告別』と第27番を置く。
当日パンフレットに平野昭氏が「こんな組み合わせがあったのか!」と書くように、これは意外に新鮮な3曲である。『ハンマークラヴィーア』が最後に置かれる場合は初期~中期作品が前半に演奏されることが多く、それは『告別』がメインだとしても同様。単純に演奏時間の問題あるいは平均的に時代を散らすということなのだと思うが、今回の3曲、「番号は近接するが、作曲年は1809年、1814年、1818年と4、5年の隔たりがあるのだ。しかも、この3曲のソナタは大きな様式転換を明確に示した象徴的な作品であり、全く性格の異なるピアノ・ソナタの3つの宇宙を一夜で満喫することになるのではないだろうか」(平野昭氏/以下の引用も同様)。

冒頭のLe-be-wohl主題から、非常にゆったりと深い呼吸でもって慈しむように演奏された『告別』(先に記した様式転換で言えば「カンタービレ期」最初の作品)。このアダージョ部分では和音のバランスへの配慮を十全に行ないながら極めて内面的な演奏を聴かせて出色だったが―この柔らかい音色と表情はベーゼンドルファー280VCということもあるかも知れない―、しかしアレグロの主部に入るや否やテンポのコントラストを大きく取って躍動感を表出する。こういったところが河村の大きな魅力で、いわゆる因襲的な表現に陥ることがなくその音楽は大変瑞々しい。
第2楽章でも彫りの深い音楽が展開されたが、これもどこか表情に新鮮なものが伺える。重々しさがないのだが、これはいささかも否定的な意味ではない。アタッカで突入した終楽章でもほとんど喜びを「爆発」させているかのような軽やかさで、もともとそういう音楽というか構成にはなっているのは勿論だが、河村ほどにエモーショナルな『告別』の演奏はなかなかお目にかかれるものではない。これまでさんざん演奏されてきたこの曲からこれだけ新鮮な表現を引き出したこと自体が瞠目に値する。

2曲目は第27番(いわゆる「寡作期」。「この時期にベートーヴェンの創作姿勢と創作観が急速にロマン主義に傾斜しているということだ。それを象徴する作品がこのピアノ・ソナタなのである」)。事実、聴けば容易に分かるだろうが、この曲は徹頭徹尾ロジカルに楽曲を構成していたそれまでのベートーヴェンと趣を異にし、その楽曲進行に感覚的なものや抒情性が前景化している。そして、ここでの河村の演奏はまさにそういった様式的側面を強く感じさせるものになっていたのだ。誤解を恐れずに書けば、この演奏はベートーヴェンより後の時代のショパンを思わせるような自由度の高いものになっていて、第2楽章などちょっとその即興曲第1番を思い出させたほど。

後半はいよいよ『ハンマークラヴィーア』(真の後期である「孤高様式期」の口火を切る作品)だが、ここでもいきなり驚かされる。非常に速いテンポで一気呵成に演奏を進行させるのだ。ここまで推進力に富んだ演奏はそうそうないのでは。しかも響きは上滑りせずに重量感も保たれる。
引き続き恐ろしく快速な第2楽章のスケルツォもほとんどブラヴーラと言ってよいほどの名技性が打ち出されるが(中間部から主部に回帰する際のスリリングさ!)、ここまで聴いて、この『ハンマークラヴィーア』においても先の2曲と同様に慣習的/因襲的な表現と完全に決別していることが分かる。そういった「安全圏」で演奏するよりも、その都度の音楽的な感興の方を優先していて、つまりその音楽は完全に自身のフィルターを通じて再現される。だからここには嘘がないしその表現には常に迫真性が宿る。
ウィルヘルム・フォン・レンツが「全世界の苦悩の霊廟」と評した――今から見ればロマン・ロラン的な感傷とも思えるが――アダージョなどもそこにはある種の軽快さすらあり、外からそれらしく付加された深刻さなど全くない。第1、第2楽章が先に記したような演奏だったのであれば、アダージョも自ずとこうなるのだろうが、それにしてもこの表現のフレッシュさには目を瞠るものがある。
終楽章も河村の面目躍如で、多少の破綻も意に介さず、恐るべきグルーヴ感(敢えてクラシックでは使わない言葉を用いる)で音楽を前へ前へと進行させるその気概には打ちのめされるしかない。ベートーヴェンが当時の楽器の限界に挑むべく常識外れに複雑なフーガを構築したり、あるいは低音域/高音域を用いたりした様相がこの河村の「ギリギリの」演奏で何とはなしに伝わって来るかのようだ。これを「軽い」とか「内面性に欠ける」などというそれこそ堅い耳と頭で「因襲的に」非難することは出来るだろうが、それではこの演奏の魅力を掴みあぐねてしまうだろう。改めて凄い演奏だったと思う(最後は小並感-苦笑)。
尚、先に記したようにこの日はベーゼンドルファー製のピアノが用いられたが、こういう演奏であればスタインウェイの方がよりフィットしていたような気もする。

アンコールは再び『告別』の第3楽章だったが、これが本プログラムでの演奏よりもさらに前進性に満ち生き生きしており、『ハンマークラヴィーア』を弾き切った後の感興が継続しているのがありありと体感できるような演奏であった。

この11月にはいよいよ第4回目(最終回)、プログラムはいわゆる後期3大ソナタ(第30番~32番)である。ここでも一味違った名演奏が展開されるに違いあるまい。

(2019/5/15)