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小人閑居為不善日記|平成、廃墟の時代(後編)――ヴェイパーウェイヴとロマン主義|noirse

平成、廃墟の時代(後編)――ヴェイパーウェイヴとロマン主義

text by noirse

※《ケムリクサ》の結末について触れている箇所があります

1

ヴェイパーウェイヴはネット上で広まった音楽で、アマチュアのプレイヤーが参入し、ミーム的に様々なサブジャンルへ派生していった。ヴェイパートラップ、フューチャーファンク、ヴェイパーゴス、ヴェイパーゲイズ……。ショッピングモールにこだわった、モールソフトというジャンルさえある。

そのひとつにヒットラーウェイヴというシロモノがある。ヴェイパーウェイヴのトラックにヒットラーの演説を重ねたという悪趣味な音楽だが、オルト・ライトや白人至上主義者にウケて、トランプウェイヴという種類まで誕生した。内容はお察しの通りのものだ。

トランプウェイヴ人気はノスタルジーゆえだと指摘されている。ヴェイパーウェイヴは、1980~90年代の好景気だった時代のサウンドやイメージに囚われている。オルト・ライトから見れば、それは「白人が強かった時代」、「アメリカが強かった時代」だ。輝かしかった王国が崩壊して何十年経ったあと、廃墟に響く虚ろな音楽――。

もちろんこれらは極端な例だが、ヴェイパーウェイヴが孕んだ問題をよく表してもいる。もともとヴェイパーウェイヴが備えていた二面性、資本主義批判や反消費主義という側面が消え去ったのが、これらの音楽だからだ。

ニューヨークにダニエル・ロパティンという音楽家がいる。彼はワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(OPN)というプロジェクト名で2000年代半ばから活動しており、先鋭的な電子音楽家として、そしてヴェイパーウェイヴの先駆者のひとりとして、常に注目されている存在だ。

OPNは加速主義に影響を受けていると言われている。加速主義とはドゥルーズ=ガタリの脱領土化の理論から派生した思想だが、とりわけ今注目を浴びているのが右派加速主義だ。簡単に言えば資本主義に制限を設けず拡大/加速化し、既存の社会や経済、果てには国家の枠組みそのものを変革、崩壊させようという考えで、一般的には相手にされていないが、やはりオルト・ライトや白人至上主義者から支持を集めている。現在のリベラルで多様な社会が崩壊すれば、もともと能力の高い白人の時代が再び到来する。もしくは白人だけの社会を作り直せばいい。このような極端な理屈だ。

OPNが昨年リリースした〈Black Snow〉は、福島の原発事故をモチーフとしている。ロパティン自身が監督したPVは、黒い灰が舞い、除染作業員が行き交う中、悪魔めいた男の先導のもとプレイメイトふうのダンサーが踊り回るというブラックユーモア溢れるもので、加速主義をシニカルに捉えていることが分かる。

〈Black Snow〉はヴェイパーウェイヴの二重性を体現しているが、トランプウェイヴからは抜け落ちている。しかし、だからといってトランプウェイヴのリスナーが特異な例だとは言えない。ヴェイパーウェイヴの変遷は、かつて何度も繰り返されてきた光景だからだ。

2

クラシックのリスナーならロマン主義の解説は不要だろう。既存の制度に反発し、感性や感情を優先させることで乗り越えようとした運動だ。18世紀末に台頭し始め、文学や芸術から政治まで巻き込んで一大旋風を巻き起こしたが、一方で中世~ルネッサンス回帰という側面も併せ持っており、保守的な傾向も備えていた。

たとえば保田與重郎だ。ドイツロマン派の影響を受けた保田は《日本浪曼派》(1935~38)を創刊、「日本の美」を称揚することで若い読者を右翼思想へ引き寄せていった。その言動は戦争翼賛と見做され、とりわけ戦後は激しく批判された。

だが、保田はあくまでも「本気」ではなかったという評価もある。過去への回帰など果たされないのは承知の上で「あえて」日本の美へ耽溺するに踏み止まっていたのであり、彼自身はそこまでロマン主義的な感傷や情緒に流されてはいなかったというものだ。

評論家の村上裕一は《ネトウヨ化する日本》(2014)で、ネットインフラがユーザーの共感を煽ることで「ネトウヨ」なる現象を調達したと論じた。ヴェイパーウェイヴも音楽や映像が簡単に配信できるようになった結果誕生したわけで、トランプウェイヴはネトウヨ現象の音楽版とも解釈できるだろう。

ロマン主義的な態度は、前回取り上げた渋谷系を巡っても垣間見られる。ピチカート・ファイヴの〈東京は夜の七時〉(1993)という、渋谷系を代表するナンバーがある。もともと人気の楽曲だったが、リオデジャネイロのパラリンピック閉会式で椎名林檎が披露することで、一際大きく注目された。

90年代後半、「歌舞伎町の女王」の異名と共に登場した椎名林檎は、もともと「アングラ」かつ「サブカル」なイメージがウリだったが、だんだん日本古来の美へ傾倒していき、来年の東京五輪での開会式/閉会式のクリエイティブスーパーバイザーに着任するまでになった。絵に描いたようなロマン主義的な流れと言えるだろう。

渋谷系はもともと趣味性の強い音楽で、政治や社会からは距離を置いていた。それが椎名によって国家的なイベントにふさわしい曲として読み換えられ、そこまで違和感なく受け止められてしまったことこそ、渋谷系という音楽の終焉への最後の一撃だったように思える。

3

音楽を離れて、アニメ~マンガの例を見てみよう。《ケムリクサ》という、この冬話題になった深夜アニメがある。徹底的に文明が破壊され、赤い霧に覆われた都市を行く旅人たちを描いたSFロードムービーだ(アニメだが)。彼らは不思議な効力を持った「ケムリクサ」を集め、駆使しながら、水を求めて、崩壊した都市を進んでいく。

マンガやアニメ、ゲームなどでは「世界の終わり」や「終末世界」というテーマやモチーフは大変に好まれており、把握しきれないほどの作品が存在している。《ケムリクサ》監督のたつきも「廃墟」や「終末世界」にとり憑かれているひとりで、その名を一躍有名にした前作《けものフレンズ》(2017)も、文明崩壊後の世界を舞台にした作品だ。

《ケムリクサ》は終盤、意外な展開を迎える。話が進むにつれて壊滅した都市がかつての日本であることが分かってくるのだが、最後にはそれが崩壊した地球の「3Dコピー」だったことが判明する。

《けものフレンズ》にも共通点が伺える。《けものフレンズ》はもともとアプリゲームのアニメ化だった。ゲーム自体はアニメ放送時には閉鎖されてしまったが、たつきはその状況を活かし、「ゲーム終了後の世界」を「文明崩壊後の世界」に置き換えるという趣向を与えた。《けものフレンズ》もまた、「崩壊した世界をコピーした」作品なのだ。

これらの作品では、滅んでしまった世界への手応えが希薄だ。彼らは文明が崩壊したことに嘆くことなく、生きる術を模索し、あるいはそれを楽しみさえする。滅んでしまった世界の謎に関心を持つことはあっても、必要以上にそれに憧れ、固執はしない。そしてその作品を支持した視聴者の多くも、こうした世界への距離感に同調していたことだろう。

4

平成の少なくとも後半は、不況やネットの台頭などの要因により、地元の店舗はもちろんブックオフやTSUTAYAでさえ次々と閉店し、モールですら廃墟化していく「廃墟の時代」だった。滅んでいった文化を悼みつつ同時に酷薄な資本主義を揶揄するヴェイパーウェイヴはそんな時代のBGMとしては最適だろうし、その果てに旧来のロマン主義的な態度に呑み込まれ、かつての王国を取り戻したいと考えてしまう気持ちも分からないではない。

そもそも廃墟とロマン主義は相性がいい。ローマ遺跡の発見/再評価と共に廃墟を愛好する画家が登場し、ターナーやコンスタブル、フリードリヒのようなロマン主義の作家もそれを継承していった。その結果、廃墟の向こうに佇む「王国」を求めようとする者が現れるのは当然の成り行きで、その最大の例が、お抱えの建築家(アルベルト・シュペーア)に命じて遠い将来に偉大な廃墟となるように都市や建造物を設計させたヒトラーだろう。ご存知の通り、ヒトラーはもともと画家志望でもあった。

ともすると「戦前に戻ったようだ」とすら言われがちな昨今、ロマン主義的な態度に引きずり込まれないようにするにはどうすればよいのか。保田與重郎のように、内側の世界に踏み止まればそれでいいのだろうか。わたし如きが語れるようなことではないが、《ケムリクサ》の世界認識は、ひとつの見識であるように感じられる。

目の前の景色が廃墟のように思われても、すでに消え去ってしまった「オリジナル」を求めようとしないこと。王国を復興しようとしても、それは劣化コピーに過ぎない。逆にいえば、たとえ今目の前にある光景が過去のコピーに映ろうとも、それでも唯一無二のオリジナルのはずなのだ。そしてtofubeatsのように、あるいは《ケムリクサ》の旅人たちのように、廃墟のような世界にも新しい価値はまだ隠れ、眠っているはずなのである。

(2019/5/15)

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noirse
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