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キアロスクーロ・カルテット|藤原聡

キアロスクーロ・カルテット

2019年4月25日 パルテノン多摩 小ホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 浅井 真也/写真提供:公益財団法人多摩市文化振興財団

<演奏>
キアロスクーロ・カルテット
 ヴァイオリン:アリーナ・イブラギモヴァ、パブロ・エルナン・ベネディ
 ヴィオラ:エミリエ・ヘーンルント
 チェロ:クレール・ティリオン

<曲目>
J.S.バッハ:『フーガの技法』抜粋
メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 第1番 変ホ長調 作品12
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第7番 ヘ長調 作品59-1『ラズモフスキー』
(アンコール)
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 作品18-2〜第3楽章

 

アリーナ・イブラギモヴァを中心として2005年に結成されたキアロスクーロ・カルテット(以下カルテットをQと略)。イブラギモヴァについては今さら説明の必要はなかろう。他の3人がどういった経緯で選ばれたのかは定かではないが、それぞれオーケストラや他のアンサンブルで活躍する実力者を揃えている(尚、イブラギモヴァがロシア人、ベネディはスペイン人、ヘーンルントがスウェーデン人、そしてティリオンがフランス人とそれぞれ国籍が異なるのがいかにも現代のカルテット)。以下は個人的な印象だが、例えばアルカントSQやツェートマイアー・カルテット、ミケランジェロ弦楽四重奏団などのように高名なソリストが中心となって弦楽四重奏団を立ち上げた場合、良い意味でも悪い意味でもその演奏に独特の個性がもたらされる場合が多いように感じる。キアロスクーロQの場合はモダン楽器ながらガット弦を用い、チェロ以外が全員立奏というスタイルを採用していることからも想像できるようにやはりそこに独自の主張があるように見受けられよう(ちなみに全員iPadの電子楽譜でペダルで譜めくり)。今回の東京公演は23日の王子ホールと多摩の2回。『ラズモフスキー』第1番を聴くために後者での公演に参加した。

1曲目の『フーガの技法』ではコントラプンクトゥス1、4、9が演奏されたが、この曲にガット弦による弦楽四重奏での演奏は実によく合う。透明かつ澄んだ音色でほとんどノン・ヴィブラート、その音の融合ぶりはまるでオルガンのようだ。この曲には申すまでもなく具体的な楽器指定がない。そのため様々な形態での演奏が試みられているが、中でも各声部の独立性の担保という意味で弦楽四重奏では比較的演奏される機会が多い。とは言え、これをモダンのスチール弦で演奏するとその平坦な音色にいささか退屈しないわけでもないのだが、この日のキアロスクーロQによる演奏では先に述べたオルガンとの喩えに即して言えば、その卓越したストップ操作=音色変化とフレージング/アーティキュレーションの多様さのためにそのような瞬間が全くなかったのは偉とするに足る。自分の耳の拙さを棚上げして述べれば、バッハの作品の中でも『フーガの技法』の難解さにはなかなか太刀打ちできないものを感じていたのだが、この日の演奏でいささかなりとも作品との距離が縮まった感がある。ありがたいことだ。

2曲目にはメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲第1番だが、これもまた洗練の極みである。何と言ってもイブラギモヴァの類まれなる音楽性がこの演奏を高みに押し上げていたが、その技巧はあまりにスムースでどんな急速なパッセージでも常に余裕をもって全ての音が美しくクリアに表出される。しかも単に音符に正確なだけではなくそこにメンデルスゾーンらしい上品で清潔な抒情性が常に伴い、要はこの作曲家の美質が完璧に表現されているのである。ここまで自在でありながらそれが否定的な意味での饒舌さを微塵も感じさせない演奏は聴いたことがない。尚、他の3人も高い技術と音楽性を持っていることは分かるが、正直に申せばイブラギモヴァが凄すぎて同じレヴェルでは語れない。しかし、これは楽曲自体が第1ヴァイオリン主導型で書かれているため余計そう聴こえるということはあるだろう。そして、別の側面から書けばこういう曲ゆえイブラギモヴァの「ひとり勝ち」でも曲の演奏、という意味でも物足りなさを感じない。

ところが休憩後のベートーヴェンでは、演奏自体の完成度はそれまでにおさおさ劣るものではないのだが、曲との相性によるのだろう、若干の物足りなさがある。まず、本作品は4声部がほとんど対等に扱われているためにイブラギモヴァだけ雄弁ではバランスが悪く、事実ここで他3人はイブラギモヴァに拮抗する表現を聴かせずにひたすら追従していた印象。第2ヴァイオリンはともかく、下2声が弱い。あの壮大な第1楽章の最初のチェロによる主題もどこか弱腰だし、いささかシニカルな第2楽章では声部間の掛け合いにその妙があるのだが、これもやや平坦。アダージョでは全体として優れた表現を聴かせてくれたが、終楽章でもまた第1ヴァイオリンがやたらと目立つ。ベートーヴェンは全体としての「構造の音楽」なので、それぞれが拮抗して建造物が高みに到達していくようでないとどうも具合が悪い。

アンコールでは、他日に演奏された同じベートーヴェンの弦楽四重奏曲第2番からスケルツォが演奏されたが、こういう繊細でインティメイトなテクスチュアを持つ楽曲ではそれぞれの掛け合いの妙が存分に発揮されていて素晴らしい。

筆者にとってはキアロスクーロ・カルテットを本格的に聴いたのは今回が初であったが、この日の演奏を聴いた限りではダイナミックで起伏の大きな表現が求められる作品よりもセンシティヴなものにより適性があるように思える。次回の来日公演でその辺りを改めて確かめてみたいところである。

(2019/5/15)