ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル ヴァリエーションズ! |藤原聡
ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル ヴァリエーションズ!
2019年3月21日(木・祝) 紀尾井ホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ピエール=ロラン・エマール(ピアノ)
<曲目>
オリヴァー・ナッセン:変奏曲 Op.24(1989)
アントン・ウェーベルン:変奏曲 Op.27
ジョージ・ベンジャミン:シャドウラインズ―6つのカノン風前奏曲(2001)
J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
良く知られた古典作品と現代作品を並べ、そこに通底するものをあぶり出す―エマールはこれが好きだ。ともすると難解と思われがちな現代作品とて、過去の歴史と無関係に存在している訳ではない。その繋がりを可視化すること。大きく言えばこれは教育的効果ということだが、そんな大上段に振りかぶらなくても、例えばバッハを主目的に来た人に現代作品も併せて耳にしてもらう。そこに面白さを感じてもらえたらしめたもの。「何だか分からない」という事になるかも知れないが、しかしまずは聴いてもらわなくては始まらない。エマールには同時代の音楽を紹介しなくてはならないという強い責務があるが、しかしそれは単なる義務感ではなく、「この曲は本当に素晴らしいのです!」という自らの情熱が根底にある。だから、聴衆にはそれが伝わって真剣に享受しようとする。
この日のプログラムは「変奏曲」がテーマ。バッハのゴルトベルク変奏曲という誰もが知る傑作をメインに、そこにゴルトベルクと同様にカノンと変奏曲を用いたナッセン、ウェーベルン、ベンジャミン作品を並列させる。「リサイタル前半の三作品の作曲者は三者三様に、ファンタジーや自由なインスピレーションを、厳格な書法と巧みに組み合わせています。そしてそれはまさに、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の特徴でもあります」(プログラムからエマールの言葉を引用)。ナッセン作品の選択について言えば、惜しくも昨年亡くなったこの作曲者/指揮者へのオマージュの意味も含まれることとなるだろう。前半が現代作品、そして後半がバッハ。
前半はナッセンの『変奏曲』から開始される。解説によれば全体は12の変奏から成り、そのうち最初に5つの性格変奏、中間部は低音主題の変奏を中心とした4つのパッサカリア、そして最後は3つのエチュード風変奏になり、これがコーダの役割をも果たしている、とある。当コンサートの前にベンジャミン・ホックマンによる演奏(AVIEレーベル)を聴いていたが、エマールの演奏では最初の性格変奏の対照性がより明確で、あるいはパッサカリア部分の声部の分離もさらに明快で思い切りが良く、曖昧さの欠片もない。構造に対する透徹した視線という意味でやはりエマールは上を行く。数回聴いただけの録音と実演を比較してこのような作品演奏にコンスタティヴな批評を書くことは筆者の手に余るが、しかし言えるのは、やはりエマールの演奏は大変に「啓蒙的」だということだ。これは先に記した教育的効果への意識と情熱の産物なのだろう。何と言うべきか、現代作品に対する「慣れ」「腰の入り方」が明らかに違う感じなのだ。
2曲目にはもはや現代作品の古典と言いうるウェーベルンの変奏曲。これは楽章間のテンポ設定から主題提示―順行形と反行形及びそれが「種子」となっての各種変形―が誠に秩序立てて提示される。非常に有機的かつていねい、落ち着いた演奏で、その意味では有名なポリーニの演奏などとは相当に趣が異なる。どちらが優れているという話ではないが、ポリーニがウェーベルンを自分に引き寄せて演奏している(というよりもこのピアニストが弾けば自ずとそうなるしかない)とすれば、エマールはその反対で、自らは透明な存在となってウェーベルンのエクリチュールにひたすら寄り添っているかのようだ。それは一見地味だが、だからこそこの曲の模範的演奏となっている、と言いうる。
前半最後はジョージ・ベンジャミンの『シャドウラインズ』。いわばカノンを用いた6つの性格的小品集。いわゆる現代作品的な難解さはさほどなく普通に(何が普通なのかはさておき‐笑)楽しめる作品だと思う。クリアかつ硬質な響き、少しくぐもった暗い音、浅く鳴らす漂うような音と暴力的な強音。そして素早いパッセージの粒立ち、第5曲のような重厚な曲で聴かせる内的テンションの持続…。まさにエマールの技巧の全てが惜しげもなく開陳されて息つく暇もないほどだ。
この前半3曲、虚心に聴けば純粋に響き自体の面白さに惹かれたりユニークな構造に興味を持ったり出来るはずで、しかしエマールの規範的な演奏を聴いても尚「現代音楽は分からない」と言って敬遠する人はやはりいる(正に近くの席で「分からん」と知人に呟く人あり‐苦笑)。専門家ならいざ知らず、「分かろうとするより面白がる」で十分ではないかと思うのだが(もとより面白いとすら思えないのならどうにもならないが)。
休憩を挟んでいよいよ『ゴルトベルク変奏曲』だが、これは前半の「透明な」演奏とは反対の個性的な演奏と感じた。主題提示は相当にゆったりしており、リピートでは適宜装飾音を加えて変化を持たせているが、印象的なのはしばしば聴かれる独特のアーティキュレーションであったり、極めて数理的に処理されるテンポ設定(正確に倍速になったりとか)や拍子ごとのあるいはクリアな声部間の分離、そして歯切れのよいタッチの駆使、さらにはmfを基本としたダイナミクスなどである。耳慣れの問題はあるだろうが、前半の3曲よりも演奏者の生身の身体感覚がより前面に出た『ゴルトベルク』であったように思う。全てのリピートが実施されたので演奏時間は75分、前半があってのこれだったのでさすがにお疲れだったのか後半ではしばしばミスタッチが出たり響きのコントロールが粗くなることもあったのだが、全体としては素晴らしい演奏だった。とは言え、現代作品での鮮烈な演奏に比べればさすがに余りにも多くの演奏を聴くことの出来るこの曲ゆえ、エマールに期待していた「もっと突き抜けた」演奏にまでは到達していなかった印象も。
個々の作品演奏についての当然出来不出来は当然あるだろうが、それはそれとして、もっと巨視的/俯瞰的あるいは歴史的視点から作品に接してみること。エマールはそういう楽しみを常に与えてくれる稀有な存在であり、だから筆者はこのピアニストの来日公演を出来うる限り聴きに行ったし、これからもそうするだろう。
(2019/4/15)