パリ・東京雑感|死への熱狂 戦争画をどう見る?|松浦茂長
死への熱狂 戦争画をどう見る?
text & photos by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
フランスのラジオ番組で、歴史学者が『日本の軍国主義復活』についてしゃべったとき、軍歌の代表として聞かせたのが『海ゆかば』だった。
海行かば 水漬く屍(かばね)
山行かば 草生す屍(かばね)
大君の辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ
海にも山にも屍体累々の悲しい歌が軍歌として尊ばれたなんて、フランス人には納得できないらしく、「詩的には美しい。カミカゼ(特攻隊員)も歌いましたし、これを聞くと人々は泣きました。マルセイエーズ(フランス国歌)みたいな勇ましい曲じゃないですね」とコメントしていた。こんな歌を聞かされたら、国民は厭戦気分に落ち込むのではないか?ところが『海ゆかば』はラジオの戦況報告に使われた。つまり軍当局お墨付きの戦意高揚の音楽だった。しかし、士気を高めたければ、敵への憎しみを煽らなければならないはず。『マルセイエーズ』の血なまぐささが良いお手本というわけだ。
聞こえるか 戦場の
残忍な敵兵の咆哮を?
奴らは汝らの元に来て
汝らの子と妻の 喉を搔き切る!
敵を憎悪し勇気を奮い立たせる歌ではなく、死を凝視する歌に魅了された日本人。ひたすら死へと傾いてゆく戦時日本の心は、絵画の世界にもはっきりと映し出されている。
去年はパリと東京で大きな藤田嗣治展が開かれた。ところが生涯の作品を眺め渡すと、あまり振幅が大きいので、この人の本心はどこにあったのだろうと、かえって藤田嗣治という人間が分からなくなってしまった。晩年フジタはなぜ洗礼を受け、ランスに礼拝堂まで建てたのだろう?(従軍画家としての活躍が、戦後猛烈な非難を浴び、フランスに逃げ帰る。ランスのカテドラルにはフジタの洗礼を記念する大きなパネルが掲げてある。)両大戦間の浮ついたパリの空気を体現する病的なヌードと、晩年のアカデミックな宗教画はどうつながるのだろう?戦前の青白い神経質な女性像も、戦後のキリスト像もどちらもちょっとウソくさい……。ところが、初めて戦争画の実物を見て、そんな中途半端な印象は吹っ飛んだ。戦争中の藤田は本物だった。
『アッツ島玉砕』には、もう憎悪も闘争心もない。死への熱狂、たけり狂う死だ。椹木野依氏はこう書いている。
「『アッツ島玉砕』をはじめとする一連の藤田の<玉砕図>は、見方によっては<反戦画>と言ってもおかしくないくらい、厭戦的な気分が漂っていますよね。あれを見て誰も、こんなふうにむごたらしく死にたいとは思わないでしょう」(『戦争画とニッポン』)
でも、厭戦気分を助長する絵だったとしたら、なぜ戦争中にあれほど讃えられたのだろう?当時の日本人は、あの地獄絵を見て、<厭戦>とか<反戦>の気持ちは起こらなかったのでは?むしろ身の引き締まる思い、敬虔な愛国の情に満たされたのではないか?だからこそ<戦意高揚>の傑作として賞賛されたのではないか?藤田は晩年こんな風に回想している。
「単独で会場に滑り込んでいた作者はそのアッツ島玉砕の前に膝をついて祈り拝んで居る老男女の姿を見て生まれて初めて自分の絵がこれほど迄に感銘を与え、拝まれたと言うことは未だかつてない異例に驚き、しかも老人たちはお賽銭を画前になげてその画中の人に供養を捧げて瞑目して居た有様を見て一人唖然として打たれた。この画だけは、数多くかいた画の中のもっとも快心の作だった」
しかも、藤田は戦争中、従軍画家たちの座談会で、画家は士気高揚のために働くべきだと発言している。
「矢張り戦争の時にはいい戦争画を作る、それが画家の仕事だと思う。記録画を残すということだけでなく、どんどん戦争画を描く。それが前線を偲ばせ、銃後の士気を昂揚させる。これは大事なことだ。」
だとすると、藤田にとって、彼の「快心の作」である『アッツ島玉砕』は絶対に銃後の士気昂揚に貢献する絵であったはず。<反戦>とか<厭戦>と聞いたら怒り狂うに違いない。『サイパン島同胞臣節を全うす』は、民間人まで崖から飛び降りて「節を全う」する凄惨な画面だし、『血戦ガダルカナル』は、獰猛・醜悪な死闘。現代の我々には、戦争の狂気を描いた偉大な反戦芸術にしか見えない。これほど徹底した人間性の否定、死への熱狂がなぜ戦意高揚に役立ったのか?当時これを見た人はどんな風に心が燃えたのだろう?
9回出撃し9回生きて帰った佐々木友次という特攻隊員がいた。敵艦に爆弾を落とし、輝かしい戦果をあげて基地に戻ると「どういうつもりで帰ってきたのか。臆病者」と罵られる一方、外に向かっては戦艦を沈めて殉職した軍神として祭り上げられた。その後も毎回「必ず体当たりしろ」という命令を無視して生還し続け、6回目にまた大型船を沈めたため、もう一度佐々木は「殉職」したことにされた。
敵を倒すことより死ぬことが大事……、今から見ると滑稽な本末転倒だが、それほど人々は死に取り憑かれていた。これが倒錯に見えなかったのは、戦争が現実から乖離し、宗教現象に変質してしまったからではないか。戦果を数え上げる合理的思考は捨て去られ、ひたすら祖国への愛を死によって証す。求められたのは信仰の証しだった。
この死への熱狂はどこから来たのだろう?いつの頃からか、日本人は確実に死ぬと知りながらする英雄的行為を賛嘆するようになった。『忠臣蔵』に感動するのは、四十七士が切腹覚悟で仇討ちするからだ。赤穂浪士の討ち入りと同じ頃書かれた『葉隠』は「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と不吉な定義を下している。しかし、遡って『平家物語』の武将は合理的思考の人達だったから、特攻精神とは無縁。死の賛美は徳川軍事政権の息苦しさと無関係ではないだろう。
それはともかく、藤田に限らず、太平洋戦争中の日本の戦争画に勇ましいのは少ない。画家の会田誠氏は「鬼畜米英まっしぐらで、かなり偏ったイデオロギーに染まった、ひどい絵があるかと思っていた。ところが蓋を開けてみたら何て言うんですかね、どれもやさしい。だから、『本当の戦争画はやさしい絵が多いな』というのが第一印象でした」と、意外さを語っている。
アメリカに接収されていた戦争画が日本に返されたのが1970年。77年にそのうち50点の展覧会が開かれるはずだったが、開幕前日に中止となる。そのまま2000年代まで、戦争画は封印されていたのだ。いまは国立近代美術館の一室が戦争画に充てられ、数枚の作品を見ることができる。小出しに見せられるだけでもインパクトは強烈で、僕には日本美術史の頂点の一つに思える。慧眼の辻惟雄氏も、藤田のほか宮本三郎、中村研一、小磯良平らの戦争画は、「もし戦争責任論を離れて造形のみを論ずることができるなら、かれらの代表作というにふさわしいだろう」と評価している。(『日本美術の歴史』)
会田のいう「やさしい」という言葉は、僕には浮かばなかったが、画家の直観はさすが。死を覚悟した共同体の超俗的やさしさなのかもしれない。悲しく、澄み切ったやさしさだ。僕は中村研一の『北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す』に、そんな感動を覚えた。堂々たるB29の編隊の下に煙を吐いて落ちてゆくちっぽけな飛行機。モネのようなピンクの空に、死のやさしさが広がる。
死の静寂に魅せられた日本の姿は特異であり、今の私たちには感情移入できない。第一次大戦が始まったときのヨーロッパの熱狂ぶりを、ツヴァイクの自伝から引いたことがある。こちらが一般的な戦争の狂気の姿だろう。
「この陶酔の中には、更にひとつのより深い、より秘密にあふれた力が働いていたのである。荒波はきわめて強力に、きわめて突如として人類の上に砕けてきたので、それは表面を攪拌して、人間獣の暗い無意識な根源的衝動と本能とを上層へひきずり上げた――それは、フロイトが深い洞察をもって<文化に対する不快感>と呼んだものであり、さまざまな法律や規則ずくめの市民的社会から一度飛び出して、原始の血の本能を荒狂わせようとする欲求であった。」(2017年11月・パリ・東京雑感|戦争の喜び|松浦茂長)
国立近代美術館の戦争画に「原始の血の本能を荒狂わす」獰猛さが皆無だからとして、そこに<厭戦>や<反戦>、あるいは<画家のヒューマニズム>を読み取り、画家の免罪を図るのは作品に対する正しい態度だろうか?<厭戦><反戦>の気持ちから、絵の前に「膝をついて祈り拝む」人はいない。見る者を跪かせるほどの絵の力は何だったのか?戦争画は、<原始の血>より一層危険な<死への熱狂>を忘れ去らないための、貴重な遺産ではないだろうか。
(2019年3月28日)