LA Phil 100|佐野旭司
2019年3月20日 サントリーホール
Reviewed by 佐野旭司 (Akitsugu Sano)
Photos by 林 喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
指揮:グスターヴォ・ドゥダメル
ピアノ:ユジャ・ワン
管弦楽:ロサンゼルス・フィルハーモニック
<曲目>
アダムズ:《Must the Devil Have All the Good Tunes?》
マーラー:交響曲第1番 ニ長調
今年で創立100周年を迎えるロサンゼルス・フィルハーモニック。しかも指揮者のグスターヴォ・ドゥダメルが同オーケストラの音楽監督に就任して10周年でもある。先月はその記念として、19~22日に3度の東京公演を行った。
中でも3月20日のプログラムは、アダムズの新作とマーラーの代表作。現在も活躍する作曲家の新たな試みと、緻密さに裏打ちされた指揮者のダイナミックさが感じられた演奏会であった。
プログラム1曲目はジョン・アダムズの《悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか? Must the Devil Have All the Good Tunes?》。今回が日本初演で、しかもそれより2週間ほど前(3月7日)に世界初演されたばかりの新作である。本公演で特筆すべき点は、この曲を通して新しい地平を目指す作曲家の姿勢が伺えたことであろう。
この作品はピアノとオーケストラによる協奏曲で、単一楽章ではあるがその内部は急-緩-急の3部分に分かれている。アダムズはミニマル・ミュージックの手法を用いた作曲家として知られるが、曲の構成の仕方に彼の独自性がある。初期のミニマル・ミュージックは、周知の通り短い音形を延々と反復させて構成される。しかしアダムズの多くの作品では、1曲の中でミニマルよりやや長めな旋律が複数現れることにより、音形が変化するごとに新たな色彩やリズムの音場面に変わっていく。
今回の作品でもそれを踏襲して音場面の変化を主体としている。しかし従来の彼の作品とは異なり、反復音形が旋律的ではない。《ハルモニウム》(1980)や《ハルモニーレーレ》(1984)などの彼の代表作では、旋律が調性的で分かりやすい。しかしこの新作の場合、旋律に跳躍進行が目立ち輪郭が不明瞭であり、特に第2部分は無調に近いといえよう。また反復される音形も、2,3音と、きわめて短いスパンで繰り返される。こうした傾向により、3部分それぞれの内部における音場面の転換が分かりにくくなっている。
反復音形があまり旋律的でなくやや無調的という特徴は、アダムズにとって全く初めての試みというわけではなく、例えば彼の《アメリカの猛戦士American Berserk》(2001)にも先例がある。しかしこれは演奏時間が5、6分程度の短い作品である。
今回の《悪魔は・・・》のように約30分の規模の作品では、やや無調的でしかも少ない音による反復音形で曲を構成したことによって、無理が生じているという印象も否めない。つまり、変化の過程が十分とはいえず、最後の部分では次第に平板な反復になっているのである。こうした特徴の音形を反復させる手法は、むしろ小規模な作品のほうが効果を発揮しやすいのではないだろうか。
今回はそのような点にもかかわらず、最後まで聴き入ることができたが、それはドゥダメルとユジャ・ワンの力量によるところが大きいのかもしれない。
プログラム後半はマーラーの交響曲第1番。彼の初期の交響曲(特に第1~4番)では性格の異なる動機を隣接させる並列的な構造が目立っており、第1番第1楽章の序奏はその典型的な例といえよう。この楽章は4度下行の旋律に始まり、ファンファーレ風の動機やホルンによるコラール風の要素、さらに低弦による半音階的な旋律などが登場する。
中でもファンファーレは、2回目以降は「遠く離れた場所に配置した」トランペットが奏するが、今回の演奏では舞台裏で、しかも舞台袖のドアを閉めた状態で吹いていた。おそらく楽譜の指示(ppp)に反してかなり強く吹いていたが、逆にそれによって、遠くから聞こえてくるような響きをうまく表現していたといえる。こうすることで前後の旋律との音色的な対比が際立ち、並列的な構造が浮き彫りになった。音響効果を巧みに計算する、指揮者の姿勢の表れであろう。ところでこの序奏動機のうち、半音階的な旋律は展開部の最初のほうでハープが奏する。その際には数小節後に全音階的に変形し、それが第4楽章の第1主題をさりげなく予告することになる。しかし演奏では、この旋律が低音の和音に埋もれてしまっていたのが残念。たしかにこの部分のオーケストレーションを考えると、主旋律を際立たせるのが難しいのは理解できるが。
一方、上述の循環的な要素もこの交響曲の重要な特徴の1つである。中でも第1楽章冒頭の4度下行動機は、他の楽章にもはっきりと現れる。第2楽章と第3楽章ではそれが前奏に登場するが、ドゥダメルは第2楽章の前奏のテンポを特に落としており、4度音程のインパクトが強まっていた。彼はしばしばテンポの変化を極端につけるが、そうした癖が結果的に循環的な構造を明瞭にしたのだろう。
ところで前述の並列的な構造は、第3楽章でも顕著である。この楽章のB部分ではメランコリックな短調の旋律と陽気な長調の旋律が交替するが、この演奏ではその対比的性格をうまく表しつつも決して極端になりすぎることなく、指揮者の絶妙なバランス感覚が伺えよう。
またこの楽章の最後でA部分が再現される際には、楽章冒頭のようなカノン風の反復が1回しかない代わりに、別な形のポリフォニーが展開される。最後のA部分では低音の声部に冒頭の旋律が現れる傍ら、トランペットと木管がそれぞれ新たな旋律を提示し、3つの異なる旋律が同時進行する。今回は、その3声が必ずしも均等とはいいがたく、低音の旋律をもう少し出すべきだろう。
第4楽章では、第1楽章の素材が多く再現される。提示部の終わりと再現部の冒頭では第1楽章の動機が回想され、また展開部とコーダではホルンが4度下行動機を高らかに奏する。第1楽章の回想は、提示部、再現部ともそれぞれの動機がはっきりと現れていた。とりわけ再現部では並列的な構造により曲想が唐突に変化するが、そのような変化をあざやかに表していたといえる。
一方ホルンによる4度下行動機は、展開部、コーダともに音がややもたついていたり、音程が乱れたりしていた。この演奏では他の箇所でも、ホルンがいまいち歯切れが良くない時もあった。そのためコーダでは、必須ではないが5番トランペットと4番トロンボーンをユニゾンで加えた方が、より安定感があったかもしれない。
ドゥダメルは、特にテンポなどを極端に変化させたりして劇的な効果を生み出す技術に長けている。そしてその背後には、響きの効果を細かく計算する綿密さが感じられよう。本公演では、全体としてはそのような形で作品の魅力をよく引き出していたといえる。しかし上述のような、曲の構造に関わる部分でもっと細やかさが発揮されれば、彼の良さがより引き立つのではないだろうか。
(2019/4/15)