クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル|藤原聡

クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル

2019年3月5日 東京オペラシティ コンサートホール
Reviewed by 藤原聡( Satoshi Fujiwara)

<曲目>
ショパン:4つのマズルカ Op.24
  第14番 ト短調 Op.24-1
  第15番 ハ長調 Op.24-2
  第16番 変イ長調 Op.24-3
  第17番 変ロ短調 Op.24-4
ブラームス:ピアノ・ソナタ第2番 嬰ヘ短調 Op.2
ショパン:スケルツォ
  第1番 ロ短調 Op.20
  第2番 変ロ短調 Op.31
  第3番 嬰ハ短調 Op.39
  第4番 ホ長調 Op.54
(アンコール)
ブラームス:4つのバラード Op.10
  第1番 ニ短調Op.10-1
  第2番 ニ長調 Op.10-2
  第4番 ロ長調 Op.10-4

 

はっきりと覚えてはいないが、今までツィメルマンの実演は恐らく7~8回ほど聴いているだろう。だが、当夜の演奏はそのどれよりも素晴らしかった。恐らくこのピアニストのベスト・フォームを示すものと言ってよい。5日に至るまでに行なわれた何回かのリサイタルのいくつかは必ずしも高い評価ではなく、ツィメルマン不調? との声も聞かれたので若干の心配があったのだが、その懸念は最初のショパンを聴くやすぐさま払拭された。

しかし改めて感じたが、ツィメルマンは凡百のピアニストとはもうタッチが違う。深く突き刺さるような、聴き手の耳を射抜く音、柔らかく撫でるかの如くまろやかで柔和な音。音色の多彩さも特筆すべきもので、喩えて言うならば漆黒や乳白色、紺碧や淡いピンクなど、聴いているとそういう連想が次々と浮かんでくるのである。今年で63歳となるツィメルマンだが、直接的な力強さはさすがにいささか弱まっている。しかし、ピアノという楽器からあらゆるニュアンスというか多様な色あいを引き出すその技はより冴えを見せているのではないか。比較するのもどうかと思うが/語弊がある言い方かも知れぬが、そういう意味ではツィメルマンはポリーニよりも「ピアノが上手い」。

最初のマズルカから上記のツィメルマンの特色が即座に聴き手の耳を捉えるのだが、ただ弱いだけではない弱音の芯の通った美しさと和音の完璧なバランス、マズルカ特有のリズム的な妙味―揺らぎ=溜めと巻き―の惚れ惚れするような自在な表現。全てが自由さを感じさせながら、かつこれしかない、と思わせる「正しさ」。ツィメルマンについてつとに言われる「完璧主義者」というフレーズ。これは一見したところ考え抜いた設計通りに一分の隙もなくそれを再現する、とでもいうような印象に繋がりかねないが、そうではなくて逆に自由さと同義なのでないか。ある作品のイデーを底の底まで読み切って=考え抜いていざステージに乗せる時、つまりあらゆる表現の可能性を模索したがゆえにたどり着いた演奏は、背後の蓄積があるからこそ逆に「いま・ここ」の感興に応じて千変万化する。それは確信に満ちた即興/自由さだ。若い時の演奏は完璧主義たる側面がともすると堅苦しく感じられることもあったし、場合によってはあまり成功していない=「形が形としてしか」聴こえて来ないこともある(実演で接したベートーヴェンの『悲愴』ソナタや第31番のソナタはその意味であまり成功しているとは言い難かった)。しかし、この日はもうマズルカからこれぞツィメルマンの本領発揮、としか言いようのないものであったのだ。

マズルカのような小品でかように圧倒されてしまったが、次はブラームスが好きな筆者でさえいささか苦手なピアノ・ソナタ第2番(余談だが、ブラームスのピアノ・ソナタが大好きだと言う方、どれだけいるのだろうか‐苦笑)。ベートーヴェン的なピアノ書法とブラームスの内的なロマン的衝動がごった煮になって爆発しているような曲で、基本的に暑苦しくてしつこく、構成もつかみにくい(ボロクソ)。だからと言って魅力がない訳でもなく、むしろそれらの欠点が好きな人には好きなのだろうと想像させるほどには良い曲だとは思う(微妙な褒め方)。だがしかし、ツィメルマンは中二病的な妄想と紙一重のこの曲を驚くべき洗練で包んで聴かせてくれた。これほど聴き易いブラームスの第2ソナタの演奏は他にない。

その要因はシンフォニックでありながらも過度な重々しさとは無縁のクリアな音響と楽章間の主題労作に対する目配せに起因するだろう。しかし表現のテンションはパッショネイトで激しくもあり、つまり構造と(ここでも)イデーを何とも高い次元で融合させてしまっているのだ。ツィメルマンはブラームスのソナタ3曲をキャリア最初期に録音しており、それはなかなかに優れた演奏だったと記憶しているが、それでもこの日の演奏に及ぶものではない。何だか少し曲を分かったような気になった(気のせい?)。

休憩後は待望のスケルツォ全曲。ツィメルマンがこのようにショパンをまとめて演奏する機会は最近それほど多くはないのでなおさら「待望」であるが、これもまた現代最高のスケルツォと断言できるような出来栄えであった。素晴らしく深みがあり、そして強靭でありながらことさら鋭利にならないしなやかな打鍵によって第1番冒頭が弾かれたが、その後に続く急速なパッセージ(相当なテンポだ)も細部が常に明晰でまるで混濁しない。このようなクリアさを常に保ちつつその音楽表現はディオニュソス的な混沌の様相を呈してくるのがさらに凄い。並のピアニストであればメカニカルは完璧であっても表現自体は案外平凡だったり、音楽表現自体には意欲と独自性が認められつつも技巧がそれに追いついていなかったりするものだが、ツィメルマンは恐ろしく高度の技巧が全て卓越した演奏表現に結び付いている。夢見るような中間部の最後で現実に引き戻されるかのような不協和音が鳴り渡るが、切っ先鋭い打鍵を敢えて抑え目のトーンで弾かれることによって心理的な陰影が増す。主部回帰後の魔性を孕んだ劇的な高揚は恐らくツィメルマンとしてもなかなか実現しえないようなものだったのではないか。先に書くがこの日のスケルツォ4曲中で最高の演奏。

第2番ではこれも中間部を挟んだ主部回帰後の表現の大きな変化が聴き手の心をざわつかせるし(細やかなアゴーギクとディナーミクの変化、休符の生かし方)、第3番では難易度の高い序奏~主部のオクターヴ連打までの音の美しさとスムースな――あまりにスムースな――流れ、そして反復されるコラール風楽句~アルペッジオの素晴らしさ(後者をここまで滑らかな美音で弾いた例を思い出せない)、最後の第4番ではさすがにピアニストに若干の疲れが出た感もあるが、ここでもこの曲で厄介だと思われる細かい楽句の正確な処理を難なくこなし、その上で4曲あるスケルツォの中でも唯一長調で書かれ、本来的な意味での「スケルツォ」に最も近く肩の力が抜けたユーモアを持つこの曲特有の洒脱さをも万全に表出している。以上4曲、今後これほどの水準のスケルツォを実演で聴く機会があるのかどうか。全く稀有な時間だったというしかない。

恐らく自身でも納得の行く出来だったのだろう、カーテンコールでのツィメルマンは上機嫌であったが、アンコールにブラームスの4つのバラードから3曲までも弾いてしまった。これも言うまでもなく極上の演奏。しかし、この日第1曲目のソナタ第2番、そして別の日にプログラミングされていた第3番、そしてこのバラード。今のツィメルマンは若き日のブラームス作品に心を寄せているのかも知れない。

最後に。先にも記したが1956年生まれのツィメルマンは当年63歳。器楽奏者としては心技体三拍子揃った文字通り円熟の季節だろう。もちろんこのピアニストは若き日から次元が違う演奏をしていたが、その時代の鋭利さは以前保たれつつも今のツィメルマンには音楽内容自体に著しい進化/深化が見られる。技巧も未だ衰えず。幸い氏は定期的に大規模なコンサートツアーを行ってくれるし(日本贔屓で1年のかなりの時間を日本で過ごしているようだ。何でも六本木が好きなのだという‐笑)、ファンは当然として実演を未聴の方もとにかく今のツィメルマンを聴いて頂きたい。マイルス・デイヴィス・マニアで有名であった評論家の故・中山康樹氏の著作をもじれば「ツィメルマンを聴け!」。

(2019/4/15)